佰漆拾弐
朱夏が汐之とともに表宮へ戻ったのは、大港で夏煌丸の帰還を見届けた翌日の夜であった。
すでに本宮は静まり返り、文官や武官たちも帰宅した後の人気のない廊下を、朱夏は執務室へと歩いた。
待ち構えていた輝山の大臣の姿に、朱夏の胸に安堵が浮かぶ。
「お帰りなさいませ、今上さま」
「うむ。戻った」
「お話を聞きとうございますが、まずは汗と埃を流されませ」
言われ、朱夏は己の姿を見下ろす。以前にも、烏に窘められたことがあったと思い出しながら、朱夏は懐から外交官の書状を取り出して執務机に置いた。
「善有たちからの書状だ。朕が湯を浴びている間に、其方らも目を通すがよい」
「今宵は、そのまま奥宮でお休みくださいませ」
汐之の言葉に、朱夏は驚いて振り返った。
「湊刃の大臣?」
「強行軍でお疲れでございましょう。まずはお体を休めることが大事です」
「だが……」
「今上さまが外交官たちへの返信をご用意なさるまで、夏煌丸は出航致しません。ですから、焦ることはないのです」
宥めるような汐之の言葉に、輝山の大臣も頷いた。
「湯を浴びて、第二室さまにゆるりと癒してもらってくださいませ。そして明日の朝、これからのことを話し合えばよろしい」
「……其方らも、疲れているだろうに」
「我らも、少しの残務を片づけたなら屋敷へ戻りますよ」
執務机に置かれた書状を指し、汐之が続ける。
「こちらに目を通したなら、きちんと鍵をかけて保管しておきます。ご安心を」
「さあ、汗を流してしっかり食事を召し上がらなければ」
両大臣に二人がかりでそう言われ、朱夏は小さく笑って頷いた。
「わかった。では、今宵はもう休む」
「はい。お休みなさいませ」
「お休みなさいませ、今上さま」
常に影のようにつき従う烏を連れて、朱夏は汗を流すために籠宮の湯殿へと向かった。
残された二人の大臣は、どちらからともなく溜息を吐いた。
「それで、外交官たちの首尾は?」
「私もまだ読んでいないのですが。どうやら唱洪の国の外交官とともに、亜伊夜の国へと足を伸ばしているようです」
汐之の言葉に、輝山の大臣が瞳を見開いた。
「それは……有能なことだな」
「何もかも上手くいくと思っていたわけではないのですが。それにしても、一度の渡りで亜伊夜の国までたどり着くとは」
感嘆したような声に輝山の大臣も唸る。
「かの国の王に、目通りが叶うと思うか」
「どうでしょう。我が国の者と亜伊夜の国の人間では、その価値観が違いますからね。衝突しないことを願うばかりです」
それぞれの席に座り、二人は亜伊夜の国について考えた。
「明日になって今上さまに奏上しようとは思いますが」
「何だ?」
「彼らがこうして首尾よく亜伊夜の国まで赴けるのなら、返信に妙葵の捕縛状を添えてもよいかもしれませんな」
目を眇めた輝山の大臣に、汐之が続ける。
「妙葵がかの国に潜んでいるなら、それでよし。今上さまの御名で引っ捕らえましょう」
「だが、あちらの国でそこそこ高い地位にいたならどうする?」
「たとえ何某かの取引によって高い位に昇っていたとして。我が国では重罪人だと告げれば、必ずこちらへ引き渡そうとする譜代の重臣はいるでしょう」
四季の国の朝議でも、新たな勢力が権力の座に就くことを面白く思わない重臣はいるのだ。
「妙葵が真実亜伊夜の国で取り立てられているとしても。それほど実績があるわけでも、かの国の歴史ある家の者でもない」
「……」
「かの国の王一人が気に入っているだけならば、つけ入る隙はあると思います」
書状の表面を撫で、考えながらそう告げる汐之の言葉に輝山の大臣は目を伏せた。
「煌姫さまは、我が国から不当に連れ去られた御方。あちらが国ぐるみで犯罪に加担したのかと、少々強気に出てみてもよろしいのではないでしょうか」
「あちらの王の人となりがわからぬ内は、それは危険であろう?」
「ええ。ですから、今上さまには二通の親書をご用意いただきます」
汐之が立てた二本の指を見ながら、輝山の大臣が首を傾げた。
「二通?」
「煌姫さまを返せと、我が国の重罪人を匿うのかと強気に要請したもの。情に訴えて、煌姫さまをお返しくださるならば、今後亜伊夜の国との交易に融通を利かせる用意があると認めたもの」
「……それは、我が国が侮られるのではないか」
輝山の大臣の懸念に汐之も頷く。
「善有たちがかの国の王をどう見極めるのか。それによって、こちらが差し出す親書の内容も変わってきます」
「それは、そうだが……」
「無論、侮られることがあってはなりません。今お伝えしたのは極端な例ですが。強気な姿勢の書状と情に訴えた書状。この二種類を用意しておくべきです」
輝山の大臣は腕を組んで考え込んだ。常にやり取りをできる距離にいない以上、どの親書を差し出すかは外交官たちの判断に任されることになってしまう。
「使わなかった方の親書は、その場で焼却させましょう」
きっぱりと言い切った汐之に、輝山の大臣はこめかみに指を押し当てて頷いた。




