佰陸拾捌
こくり、と朱夏は喉を鳴らした。その音の大きな響きに己で驚く。
両大臣の視線が朱夏に向けられた。静かに、朱夏の決断を待っている。
「……櫻花楼、は……亜伊夜の国との交易を望むか」
ようやく絞り出した言葉に汐之が頷いた。
「国交が開かれるとなれば、あちらの国から我が国へ入ってくる品々も増えるでしょう。それに先駆けて、櫻花楼が店で珍品を扱えば、新たな交易に渋い顔をしていた重臣方の気持ちも変わるかもしれません」
「しかしその実、櫻花楼の船に今上さまの密命を帯びた者を乗せるのでは?」
輝山の大臣の言葉に汐之は首を傾げてみせた。
「そもそも、楼主自身が船に乗るとは限りませんがね。先に派遣した外交官たちと、密にやり取りできるようにはなるかもしれません」
二人の話を聞きながら、朱夏は必死に震えを抑えて書状を開いた。
墨の濃淡の美しい、流麗な文字が書き連ねられていた。
「……凛慈は、手跡も達者なのだな」
「あれだけの大店の主ですからね」
逸る気持ちを抑え書面に目を走らせると、汐之が報告した通りのことが丁寧に書かれていた。
櫻花楼が船を造ることをお許しいただきたい。
世を遍く照らす今上帝さまが新たに齎される国益に、我が楼も一乗りしたい。
これまで交易していた国々の他にも、大陸には麗しく珍しい国がある。
櫻花楼としても、新たな取引を始めてみたい。
以前櫻花楼に賓客としてお迎えした方が、亜伊夜の国の人間であった。
ゆえに、亜伊夜の国との交易のお許しをいただきたい。
要約するとこういった内容が、きちんと朱夏を敬った文章で綴られていた。
「しかし、亜伊夜の国の者が、あの楼に来ていたことがあったとはな」
「我が国は、旅人を拒絶してはおりませんからな。ふらりと立ち寄ったのでしょう」
「それで、今上さま。どうなさいますかな」
輝山の大臣の問いに、朱夏が手元から顔を上げる。その瞳には、強い光が宿っていた。
「朕の立てた方針に、真っ向から乗ろうという豪胆な商人。その熱意と大胆さに、朕の胸は打たれた」
「はい」
「許さぬ理由がない。櫻花楼の名で船を建造することを、朕の名において許可しよう」
きっぱりと言い切った朱夏に、両大臣が深く頭を下げた。
昼餉の時間を奥宮で過ごすことにした朱夏は、烏を供に表宮から戻ってきた。帝となってから、朱夏が移動する際につき従う護衛の数は増えたが、側近くに侍ることを許されているのは、変わらず烏だけであった。
帝に多数の側室がいる場合は、誰のもとを訪れるか前もって伝えておかなくてはならないが、現在奥宮にいる室は舎利ただ一人。
気儘に訪れても、誰にも咎められることはなかった。
第二室のために与えられている居室の扉の前で、女性の武官が朱夏を見つけて頭を下げた。
「第二室は中にいるか?」
「はい。ご生家からお連れの侍女どのと、刺繍をされておいでです」
「開けてくれ」
朱夏の言葉で、舎利の部屋の扉が静かに開かれた。
居室の中央に座って手巾に刺繍をしていたらしい舎利が、朱夏の姿を認めて立ち上がる。
「今上さま、ようこそいらせられませ」
ふわりと香る舎利の香に頬を緩め、朱夏は舎利に歩み寄った。
「其方と、昼餉をともにしようと思ってな。迷惑だったか?」
朱夏の言葉に目を丸くした舎利は、微笑んで首を横に振る。
「今上さまがおいでなのは、嬉しいことですわ。迷惑だなんて、そんな……」
舎利の手を引き、長椅子に腰掛けた朱夏は、傍らに立つ侍女に目を向けた。
朱夏と同じくらいの背丈の、きびきびとした動きの侍女であった。
「其方が、湊刃から来た侍女だな?」
問われた侍女が、一度舎利を見てから朱夏に頷いた。
「お初にお目もじ致します。湊刃の浪嶺と申します」
涼やかな声で告げたのは、しっとりとした黒い髪を頭頂で一つに纏めた引き締まった体躯の女人である。
薄紅の切れ長の瞳で朱夏を見つめ、武官の装束に身を包んでいた。腰には警護のためであろう刀を挿している。
「湊刃の大臣の、乳母の娘だとか?」
舎利が淹れた茶に口をつけながら、朱夏は尋ねる。汐之に話を聞いた時から、どのような女傑であるのかと会うのを楽しみにしていたのだ。
「はい。恐れ多くも右の大臣となられ、これまでのように気楽にお話できる方ではなくなりました」
その言葉に吹き出し、朱夏はくすくすと笑いながら浪嶺を見上げた。
「そのようなことを言っては、湊刃の大臣は拗ねるぞ。人の目がないところでは、これまで通りに接してやればよい」
「滅相もございません。わたくしは、分を弁えております」
生真面目な回答に笑いながら、朱夏は隣りに座った舎利に視線を向ける。
「其方はどうだ?この侍女とは、上手くやっていけそうか?」
己を気遣っていると実感し、舎利は微笑んだまま頷いた。
「真っ直ぐで気持ちのよい、お話するのがとても楽しい方ですわ」
「それならばよかった」
朱夏が答えた時、奥宮の侍女たちが昼餉を運んで部屋へと入ってきた。
ねっとりとした視線を向けられる朱夏は、それに気づかない振りをして舎利との昼餉を楽しんだ。




