佰陸拾陸
第二室舎利のために整備された新たな奥宮。
最奥の一室で、朱夏は舎利を迎え入れた。湯上がりの肌に単だけを纏い、寝台に座っていた朱夏が舎利の姿を認めて立ち上がる。
「よく来てくれた、舎利」
朱夏が差し出した手にそっと手を重ね、舎利は恥じらうように頬を染めて目を伏せた。
細い顎に、朱夏の指がかかる。
「支度は万事滞りなく整えられたようだな。さすがは湊刃の大臣だ」
上を向かされた舎利は、ほのかに微笑んで首を傾げた。
「今上さまにおかれましては、わたくしのような者をお側にお呼び寄せくださり、感謝申し上げます」
舎利の言葉に朱夏は首を振る。
「ここには私と其方しかおらぬ。そのように、かしこまった話し方をする必要はない」
「ですが……」
「頼む」
舎利の手を引き、朱夏は寝台に並んで腰を下ろした。
「公の場に出る時だけ、気をつけてくれればよい。この奥宮にいる間はこれまでのように、朱夏、と呼んでほしい」
「……はい、朱夏さま」
「私が素の私でいられるのは、其方の前でだけだ。其方にも、ここでは楽に過ごしてほしい」
朱夏に手を握られ、舎利はふふっと笑いを漏らした。
「舎利?」
「じゃあ、遠慮なく。けど、侍女の皆さんがおいでの時には、ちゃんと澄ました顔を作りますからね?」
その言葉に破顔し、朱夏は舎利の細い身体を抱き寄せた。
腕の中で身を固くした舎利の耳元で、朱夏は囁く。
「私には、一番に優先しなければならない正室がいる」
「……はい」
「其方とともに過ごしたいというのは私の本心だが、政治的に必要だったというのも事実だ」
「……」
舎利の背を撫でながら、朱夏は続ける。
「辛い思いをさせるだろう。その時は、不満は私にぶつけてくれ。隠さないでくれ」
「朱夏さま?」
「琉兎のように、胸の内を明かさずに消えてしまうことだけは、やめてくれ……」
抱きしめられた腕の中で、舎利は瞳を見開いた。身を捩って、朱夏を見上げる。
青灰色の瞳が、明かりを受けて揺らめいていた。泣くのを堪えているようなその瞳に、舎利は思わず手を伸ばす。
そっと頬に触れた手に己の手を重ね、朱夏は言葉を紡ぐ。
「其方はこれまでの暮らしを捨てて、ここに来てくれた。其方の想いに応えたい」
「あたしは、朱夏さまのお側にいられるだけで、十分」
「そんなに、甘やかすな」
眉を下げた朱夏の頬に、舎利はそっと唇を押し当てた。
驚きに目を瞠った朱夏の首に腕を回して抱きつき、耳元で囁く。
「いつまでも、そんなに申し訳なさそうな顔をしているのは無粋ですよ。今宵は、貴方さまと迎える初夜でしょう?こう見えてもね、柄にもなく緊張してるんだ」
「緊張?其方が?」
朱夏の瞳をじっと覗き込んで、舎利は頷いた。
「そりゃあそうさ。ここは、あの楼じゃない。薄暗い明かりで隠すこともできない」
「隠す?」
「貴方さまに、あたしのすべてを曝け出さなきゃならない。恥ずかしくて、不安で、どうしようもないよ」
頬を染め瞳を潤ませる舎利を、朱夏はもう一度きつく抱きしめた――。
舎利の乗ってきた輿を湊刃家の屋敷に戻す指示を出し、汐之は一人表宮を歩いていた。
ひっそりと静まり返った表宮には人の影はない。誰もが、帝と側室との婚姻を寿いで美酒に酔っていることだろう。たとえ腹の中にどんな思いを隠していても。
最後の曲がり角を通り過ぎようとしたところで、後ろから声を掛けられた。
「よき夜ですな、大臣」
ばっと振り返り隙なく身構えた汐之の目に、ゆったりとした朱色の袍を纏った白髪の人影が映った。
警戒を解いた汐之は小さく息を吐く。
「驚かすな」
「ははっ、申し訳ございません。ご息女を無事に奥宮へと入れられ、安堵されているところかと思ったのですがね」
櫻花楼の楼主、凛慈である。舎利の輿入れのための支度品を都合したのは、櫻花楼であった。
珍しいことではない。貴族家の輿入れや成人の儀式などといった祝い事には、櫻花楼で品を整える者が多い。汐之が今回依頼したからといって、不審に思われることはなかった。
「第二室さまの行列でも眺めに来たのか?」
軽口を返した汐之に微笑み、凛慈は一歩近寄って囁いた。
「それもありますがね。少しご相談がありまして」
「相談?お前が?」
意外な言葉に汐之は首を傾げた。
「人に聞かれたくない話ならば、我が屋敷に来るか?」
「よろしいので?」
「どうせ今夜は、屋敷に戻って祝い酒を呷るつもりだったからな。つき合え」
ちらり、と凛慈の視線が執務室の方向へ向く。
「あちらに、ご用がおありだったのでは?」
「急ぎの仕事はない。義娘の入内で高揚した気分を、少し落ち着けてから帰ろうかと思っていただけだ」
「では、お言葉に甘えまして」
さっさと執務室に背を向けて歩きだす汐之の後を、静かに凛慈が追いかけた。




