佰陸拾肆
無事に唱洪の国へ入ったことへの慰労と、大いなる使命のためにますます励むようにとの激励を認め、朱夏は書状に封をした。帝の印をしっかりと押して、汐之に手渡す。
「次の大船でこれを届けよ」
「御意」
恭しく書を掲げ、汐之が懐にしまい込んで立ち上がった。
「まさか、其方が自ら行くつもりか?」
朱夏の問いに、汐之は悪戯っぽく笑った。
「そろそろ、海が恋しくなりましてな。それほど時は頂戴致しません」
「十日もすれば、舎利の入内だ。それまでには戻れよ」
「勿論ですとも」
片目を瞑り、汐之が輝山の大臣に視線を向ける。
「それでは、私が戻りますまで、今上さまのことをよろしくお頼み申し上げます」
「うむ。道中気をつけて行って参るように」
「お言葉ありがたく」
深く頭を下げて汐之が執務室を出ていった。
すべての書類を裁き終え、仕事を残さずに行くところはさすがであった。
外交官たちの書状を畳んで抽斗にしまい、朱夏は息を吐いた。
「舎利への献上品として相応しい品は、大船に乗っていたか?」
尋ねられた輝山の大臣が微笑む。
「珍しい香油。麗しい絹地。それと、奥宮の居室に置くに相応しい調度品でしょうか」
「調度品?」
「解体されてからの奥宮には、清掃や敷布の入れ替えといった、建物の管理をする侍女だけが入っておりましたからな。初めて迎える女主人が侮られないよう、高級な品々で周囲を固める方がよろしい」
輝山の大臣の説明に頷き、朱夏ははた、と気づく。
「舎利の参内道具にするのか?」
「唱洪の国との交易品を、湊刃が買い取り、奥宮への献上品という形に致します。それならば、どこからも攻撃されることはないでしょう」
「湊刃の大臣には、金を遣わせてばかりだな」
眉を寄せた朱夏に、輝山の大臣は首を横に振った。
「国のために遣わせねば、あの男は入れ込んだ女に湯水のごとく遣いますぞ」
その言葉に目を丸くした朱夏は、汐之と櫻花楼を訪れた夜のことを思い出した。
大港への往復の間、女っ気なしでは寂しいと言い放った姿が浮かんできて苦笑を漏らす。あれは、朱夏を連れ出すための言い訳であったのだろうか。
「そう言えば、湊刃の大臣の細君は貴族の出ではなかったな」
「何でも、大港と往復する際に出会ったそうで。人通りのない夜道で、暴漢に襲われそうになっていたところを助けたらしいですな」
あまり詳しく聞いたことはなかったが、甲斐甲斐しく汐之に尽くす気立てのよい細君だという。
「その漢気に打たれた細君が、渋る湊刃の大臣のもとに押しかけて、下働きからでよいから側にいさせてくれと取り縋ったとか」
「それで、押し負けて迎え入れたのであったか」
くすくす笑いながら、飄々として見えるくせに情に厚い汐之を思う。
「何とも湊刃の大臣らしい」
「睦まじく暮らしているようで、湊刃家も安泰でございますな」
執務机の上を片づけ、昼餉のために朱夏は立ち上がる。
「午後からは、少し鍛錬の時間を取る。近頃鈍っているからな」
「近衛の鍛錬場をお使いになりますか」
「いや、籠宮の内庭で烏に稽古をつけてもらう。朕が顔を出しては、近衛の者が落ち着くまい」
扉を開けた烏が、輝山の大臣の視線を受けて頷く。
「無茶はなさらないように、吾が気をつけておきます」
「うむ。ご側室さまの入内が近い。お怪我などされてはことだ」
しっかりと頷き合う二人に、朱夏が呆れたような吐息を漏らした。
「二人とも、朕のことを何だと……」
「おや。ご尊顔に傷などつけて、ご側室さまに怯えられても知りませんぞ」
「舎利は、そんなことで怯えるような女ではない」
きっぱりと告げた朱夏に、輝山の大臣がふくふくと笑う。
「お迎えになる前から、ご寵愛が深いようで安堵致しました」
「からかうな。朕は……不誠実な男だ」
呻くように漏らされた言葉には、輝山の大臣は答えを返さなかった。
煌姫だけを愛すると心に誓っている朱夏が、舎利を迎えることにいまだ悩んでいることは知っている。
だが、救出にどれだけかかるかわからない。その間、一人も室を迎えないことで重臣たちから攻撃されることもわかっていた。
気を張りつめすぎて朱夏の心が壊れるくらいなら、慰めとなる女を側近くに置くことも必要なことだと、輝山の大臣も汐之も、烏でさえそう思っているのだ。
朱夏の葛藤は、朱夏自身で解決するしかないことだった――。




