佰陸拾弐
執務室の長椅子に寝そべった朱夏に、後から入ってきた輝山の大臣が苦い顔をした。
「今上さま、お行儀が悪うございます」
「わかっている。だが、疲れた」
壁際で烏の入れる薬草茶の香りが漂ってくる。
汐之が自分の席から何かの書状を手に取ってきて、長椅子の向かいに腰掛けた。
「いやはや。思った通りの白熱ぶりでしたな」
呆れたような声に、身を起こした朱夏も笑って薬草茶を口に含む。
「側室を迎えろと言うから、その通りにしてやると言ったのにな」
「重臣方の驚いた顔といったら。ご自分たちのお家から入内させられると、本心から期待しておいでだったのでしょうよ」
汐之の隣に座った輝山の大臣が、嗜めるような声を出した。
「しかし、煽りすぎだな。各家の娘たちが、本当に競うことになったらどうするつもりだ」
「おやおや。輝山の大臣のお眼鏡にすら叶った我が家の養女が、まさか負けるとお思いですか?」
わざとらしく目を見開いた汐之に溜息を吐いてみせ、輝山の大臣が朱夏に視線を向ける。
「奥宮の侍女に、彼らは娘をねじ込んでくるでしょう。これまでは年嵩の侍女を揃えておりましたが、新たに迎える室に合わせて、若い侍女も必要だと屁理屈をこねてくるやもしれませぬ」
「構わん。それであ奴らが黙るならば、受け入れてやろう。媚薬を持ち込んだ時点で生家に追い返すと告げておけば、愚かな真似もそうそうすまい」
答えた朱夏が汐之に尋ねた。
「舎利の支度は進んでいるか?」
手にした書状に目を落とした汐之が頷く。
「ええ。入内のための装束も仕立て終わり、奥宮について入る侍女の選定も済みました。あとは、よき日を選ぶだけですな」
「かの楼の出自であることは、漏れぬな?」
声を潜めた朱夏に、汐之も身を乗り出して囁く。
「あの楼の花たちには、楼主がよく言い聞かせております。大恩ある我が娘と貴方さまのために、彼女たちは口を噤むでしょう」
「あとは、宮中にいるやもしれぬ、舎利を見知った者か」
「彼女の素顔を見た者はおりませんでしょうから。化粧を変え、髪型も高貴な姫君のように結ってしまえば、目敏く気づく者はいないと思います」
汐之の説明に、隣で聞いていた輝山の大臣が首を傾げた。
「楼主に聞いた話で、彼女に恩義を感じているというのはわかるが。女たちが今上さまのためにも口を閉ざすと思う、その根拠は何だ?」
朱夏に視線を向けた汐之が、ぽり、と頭を掻く。
「湊刃の大臣?」
「あー……私が知っていると、今上さまはご存知ではないので、言いにくいのですが……」
朱夏と輝山の大臣の瞳が、揃って汐之を見つめた。顔立ちは似ていないのに、首を傾げる仕草がそっくりであった。
「仙螺の元嫡男への、私刑の許可」
ぽつりと零された言葉に、二人の目が見開かれた。
朱夏は何故知っているのかという驚きに。
輝山の大臣は知らなかった事実を明かされて。
気まずそうに視線を逸らす汐之が、苦笑を浮かべて言葉を続ける。
「楼主をお責めにならないでくださいよ。私が、貴方さまを守るためにと、無理に聞き出したのです」
「……いや。信頼していると言いながら、其方らにも秘した朕が悪い」
薬草茶で喉を潤し、深く息を吸って朱夏は祖父を見つめた。
「其方にも、黙っていたことを詫びよう。先の仙螺の騒動で身動き取れなかった朕を救出して匿ったのは、かの楼の楼主なのだ」
その言葉に輝山の大臣は目を剥いた。
己も不当に貴人牢に捕らわれていた間のことである。烏を筆頭にした朱夏の隠密たちがよい働きをしたのだと報告を受け、それを鵜呑みにしてしまっていた。
緩く頭を振り、櫻花楼での顛末を聞き終えた輝山の大臣は深く息を吐き出した。
「これは……私もまだまだ、視野が狭い。よもや、今上さまにそれほど強力に味方してくれていたとは」
捕らわれた宮中からの脱出を助け、櫻花楼内にその身を匿い、黄駕の捕縛にも尽力したのが凛慈と舎利だと知った輝山の大臣は小さく笑った。
「あの楼主と女たちの評価を、引き上げるべきですな」
「そんなことを彼らは望むまいが。報いるならば、これまで以上に贔屓にしてやるとよい」
「まあ、そんなわけで。楼の者たちの助力は揺るぎませんので、ご安心を」
櫻花楼の遊女たちの口から、舎利の素性が漏れることは決してない。
恩義を感じている相手の不利になるような真似を、あの楼の者たちがすることはないだろう。
安堵の息を漏らし、輝山の大臣が重々しく口を開いた。
「重臣たちの横槍が入る前に、入内のお日にちを決めます。折よく大船が交易から戻りますからな。目新しい交易品を、新たな第二室さまに献上致しましょう」
外交官たちが齎すはずの知らせを待ち、頷き合った三人の密談は終了した。




