佰陸拾
朱夏と舎利を最上階の部屋に残し、輝山の大臣は凛慈を伴って階下へと戻ってきた。
先ほどまでの穏やかな笑みを消し、厳しい視線で向かいに座る凛慈を睨む。
茶を淹れた見習い遊女が下がり扉が閉ざされると、輝山の大臣は口を開いた。
「さて。其方の思惑を聞きたい」
その言葉に、凛慈は微笑みを浮かべたまま首を傾げた。
「どのような意味でございましょう?」
「言葉通りだ。あの御方の側にあの娘を送り込むのは、其方の望みか?」
厳しい詰問に、凛慈は緩く首を振った。
「私がこの楼で、花たちに望むのはただ一つ。櫻花楼の益となり、太きよきお客の心を掴むことです」
「では、此度の話はこの楼の益となるか?」
輝山の大臣は、これまで凛慈とそれほど関わりを持つことがなかった。
国一番の大店の楼主。献上品を宮中に届ける際に、一言二言交わしたことがある程度だ。
孫である朱夏が、これほど親密そうな態度を見せるとは思っていなかったのである。
危険であった。至高の御位に就く朱夏の、足を引っ張る枷となられては困る。
輝山の大臣の渋い表情に、凛慈の笑みが苦笑に変わった。
「そうですねぇ。益となるかと問われれば、此度のお話に関してはまったくなりません」
「……ならぬ?」
眉を上げた輝山の大臣に凛慈は静かに頷いた。
「舎利を側室としてお迎えになられるには、かのお家の養女になさるとのお話でございました。しかも、遊郭の妓女であったことは伏せるのだと。ならば櫻花楼としては、大手を振って舎利を送り込んだことにはできません」
「……」
「お貴族さまのご息女。櫻花楼との繋がりを秘するならば、大した益は齎されません」
一つずつ、凛慈は丁寧に言葉を重ねる。
「側室となられ、櫻花楼の品々を愛用してくださるならば、店としての利益は出ます。ですが、先の第六室さまのように、後見だと大きな顔をできるわけではございません」
「ならば、このまま遊女として働いてもらっていた方が、其方には都合がよいのではないか?」
なおも尋ねる輝山の大臣に、凛慈の眉が下がった。
「先ほども申し上げました。舎利には、すでに櫻花楼を出て独り立ちできるほどの稼ぎがあるのです。いつでも出ていける。そんな彼女を、この楼に縛りつけられるだけの理由がございません」
「つまり、遊女として留まれと、強制できぬということか」
大臣の言葉に凛慈は頷く。
「ただ恩義を感じての好意で留まってくれているだけの彼女が、夏の君のお側にいることを真に望むなら。夏の君も彼女を大切に扱うと仰せなら。櫻花楼としては送り出すことしかできません」
腕を組んで天井を睨む輝山の大臣に、凛慈は穏やかに続けた。
「そのための諸々の差配は貴方さまがなさるのでございましょう?逆にお聞きしたい。貴方さまから見て、舎利はいかがでございましたか」
ほんの一時、朱夏と言葉を交わすところを見ただけだ。難しく眉間に皺を寄せ、輝山の大臣は組んでいた腕を解いた。
「気概のある、懐の深い女人であったな。私は遊女というものに触れたことはないのだが。先の第六室さまも、遊郭上がりとはとても思えぬ品のよさであった」
その言葉に、凛慈がふふっと笑う。
「この楼には、素性をお隠しになった高貴な方々もおいでですのでね。ご不興を買わないよう、お貴族さまの家とは比べ物にならないほどの、高度な教育がなされます」
「そう言えば、私の孫は第六室さまと何か関わりがあったのだろうか」
「はい?」
首を傾げた凛慈に、輝山の大臣が独り言のように呟いた。
「先帝のご寵愛深い第六室さまであった。夏の君は、それほど目通りを許されたわけではないと思うのだが。先ほど、あの娘との会話の中に出てきたのが気になってな」
凛慈が言葉に詰まる。朱夏と琉兎の関係を、一言で表すのは難しい。凛慈とて、何もかもを知っているわけではないのだ。
すべては、二人の心の内にしまわれている。そうして秘したまま、琉兎は逝ってしまった。だが、琉兎の眠る棺を前にした朱夏の慟哭を見て、凛慈にも朧気にわかったことはある。
言葉にこそしなかったが、朱夏はきっと、琉兎のことを心から大切に思っていたのだろう。
「複雑な事情はおありでしょうが。少なくとも、貴方さまが案じられているような不義は犯しておられないと思いますよ」
「……」
「父君のご細君。あの生真面目な若君が、通じていたなどと思われますか?」
凛慈の問いに緩く首を振り、輝山の大臣は気持ちを切り替えるように口を開いた。
「ともあれ、彼女は頷いてくれた。であるならば、ここからは私の仕事だ。養女として迎える手筈を整え、奥宮も手直しせねばならん」
「こちらも、舎利がここにいた痕跡を少しずつ消さねばなりません。花たちにはよく言って聞かせますが、彼女が抱えていた多くのお客への言い訳となりますと……」
「貴族家に娘として迎えられたなら、遊郭に通う男どもの目にその姿が触れることはなかろうが」
奥宮は帝の後宮である。他の男が立ち入ることは禁じられているので、舎利の姿を見られる心配はなかった。
問題は、式典などで表宮に出てきた際に、櫻花楼に通う文官や武官の目に留まることであった。
「表にお出になる時には、薄布でお顔を隠していただくしかなさそうですね」
「まあ、そのあたりも追々だな。まずは、彼女の素性を考えねばならぬ。重臣たちに突かれぬよう、詳細にな」
最上階に籠った若い二人に思いを馳せ、孫が心慰められることを願いながら、輝山の大臣は瞳を閉じた。




