佰伍拾玖
かちゃ、と茶器を置く音に朱夏は振り向いた。
輝山の大臣が、薬草茶を啜って茶器を卓に戻したところである。
「あ……」
祖父の視線を受けて、朱夏の頬がじわじわと熱を持つ。今、己は何を口走ったのか。
くすり、と忍び笑いのような声が聞こえ、朱夏は慌てて舎利に視線を戻した。
「……舎利?」
「いえ、ごめんなさいね。何をお言いかと思えば。いけませんよ、遊郭の女をからかったりなさっちゃあ」
「っ、からかってなど……っ」
反論しかけた朱夏の目に、きつい眼差しの舎利の群青色が飛び込んできた。
「敢えて言葉を崩させてもらいますけどね。あたしは、ここで貴方さまに一晩のお情けをいただけるだけで、満足なんだ。側室だとか、妻だとか、そんなことは望んじゃいない」
「……」
「不毛だと思われるかもしれないけれど。大切な奥方さまや、迦陵姐さんを想ってる貴方さまのことが、あたしは好きなんですよ」
「舎利……」
眉を下げた朱夏に舎利は微笑む。
「それに、この楼の女たちを、置いて行けない」
挑むような視線で、舎利ははっきりとそう告げた。
どこにも行き場のない、違法な遊郭で生きていくしか術のない女たち。
かつては琉兎が、そして今は舎利がその養育のための金を稼いでいる。理想を叶えられない朱夏は、言い返す言葉を持たなかった。
「けど、嬉しかった。あたしみたいな女に、そんなこと言ってくださって。だから、今夜のことは忘れます」
「舎利、私は……」
「これからは、櫻花楼の花とお客として、ここで買ってくださいましよ。そうすれば、そんなおかしな考えをお持ちになることもないでしょう」
距離を置かれた。近づいたと思った心が、離れてしまった。
そう感じた朱夏は唇を噛みしめる。真っ直ぐな気性の舎利に、己は決して言ってはいけない言葉を口にしたのだろうか。
自責の念に駆られる朱夏の耳に、くすりと小さな笑い声が届いた。のろのろと、向かいに視線を向ける。
「いやあ。舎利の気風は見事だと思いますが。何だか夏の君が気の毒になってまいりましたね」
「……凛慈?」
「舎利、お前ももう少し、よく考えることだ」
楼主に窘められ、舎利の形のよい眉が歪む。
「何を……」
「夏の君はな。お前が頷いてくれたなら、お貴族さまの養女にしてまで、お前を迎え入れたいとお考えなんだぞ」
その言葉に目を見開いて、舎利が勢いよく朱夏の顔に視線を戻した。凛慈の言葉がさらに続く。
「女冥利に尽きると思わんか?本当なら、血筋正しい奥方さまがおられ、由緒あるお家の娘を側室にされるところだ。それを、貴族の養女という離れ業を持ち出してまで、お前を側室にしたいと仰せだ」
「……」
「遊郭に生きる女が、高貴な御方にそこまで見込まれて、それを蹴るなんざ無粋だと俺は思うがな」
凛慈の説得に朱夏の方が驚いた。舎利を身請けしたいと申し出た時には、よい顔はしていなかったというのに。
不審に思う内心が表情に出ていたのか、朱夏に向かって凛慈が苦笑してみせる。
「私は、貴方さまが舎利を迎えることに、反対しているわけではございませんよ。筋を通していただきたかっただけです」
「筋……」
「貴方さまは、真っ直ぐに舎利に伝えられた。側室に迎えたいと。勿論、お心の内にある打算まではまだ、お話しになっておられない。ですが、私は誠実だと感じましたからね」
ふふっと笑い、凛慈がさらに続ける。
「不器用な貴方さまに、少しばかり手助けをしても、罰は当たらないんじゃないかと思いますよ」
「凛慈……」
「ふむ、興味深い」
零された呟きに朱夏は顔を向けた。輝山の大臣が、ふくふくと笑って口元を袖で隠していた。
「輝……祖父上?」
「これまで貴方さまは、周囲に気を配り政争に張りつめ、常に真っ直ぐ気丈に立っておられた。至高の御位に就かれるからには肝要と、眩しく頼もしく思っておりましたが」
輝山の大臣が何を言うのかわからず、朱夏は身構えた。
「ここでは、素の貴方さまでいられるようですな」
「え……?」
「楼主もそちらの娘も、貴方さまに対して言葉を飾らない。宮中では許されぬことですが、貴方さまは常よりものびのびとしておいでだ」
朱夏の前で笑うのは、孫の年相応な様子に微笑む祖父であった。
「私めも、一つ手助け致しますかな」
「祖父上?」
「そこな娘。舎利と申したか」
「あ、はい」
ぽかん、と成り行きを見守っていた舎利が、はっとしたように姿勢を正した。
「此度の申し出はな。うるさい重臣たちへの目眩ましのようなものだ」
「目眩まし?」
「我が家から側室を迎えろと、毎朝毎朝姦しい。それを嫌ったこちらの御方が、気の置けない娘に心の癒しを求めておるのだ」
「……」
きゅ、と舎利の手がその膝の上で固く握られた。それに気づかない振りをし、輝山の大臣がさらに言葉を重ねる。
「この情けない孫に、添うてやってはもらえまいか。勿論、ご正室がおいでの御方だ。其方が辛い思いをすることも、多々あるやもしれぬ」
「……」
「だが、今この激動の中にあってこの御方がお心の慰めに見出したのは、其方ただ一人。それを、汲んでやってはもらえまいか」
誠実な言葉に、舎利の瞳が揺れた。朱夏をじっと見つめ、輝山の大臣と凛慈に交互に視線を移している。
膝の上で握りしめられた拳に、朱夏の手がそっと重ねられた。
「私はどうも、言葉が足りぬな。祖父上や凛慈に助力してもらうとは、情ないことだ」
「……朱夏さま?」
首を傾げた舎利の頬に手を添え、朱夏は己の方へとその群青の瞳を向けさせた。
「私の側で、私とともに生きてほしい。琉兎の分まで、其方に愛を捧ぐとここに誓おう」
「朱夏、さま……」
「私のような不誠実な男の側で生きるのは、やはり嫌だろうか」
眉を下げた朱夏に、舎利の瞳にみるみる涙が溜まった。
「……ずるい、お人……」
消え入りそうな声で囁いた舎利の細い体を、朱夏は己の胸に抱き寄せた。




