佰伍拾陸
宵闇に浮かび上がった櫻花楼の建物を目にして、朱夏の足が止まる。
つき従ってきた輝山の大臣が、訝しげに声を掛けた。
「今上さま、どうなさいました」
「……何故、祖父上がこんなところまで……」
ぼやく朱夏の脳裏に、汐之の面白がる声が蘇った。
『輝山の大臣の目で、しっかりとあの娘を見ていただくとよろしいでしょう』
「そもそも、帝の左の大臣が、こんな夜更けに忍び歩きなど……」
「何を仰せか。仰々しく行列を立てることをお止めになったのは、今上さまではございませんか」
当たり前である。
裏路地で経営される違法な遊郭に、帝の行幸など以ての外であった。
民家の陰で密やかに交わされる会話に、背後から咳払いが掛かった。
「お二方とも、ここはまだ人通りがございます。そろそろ、向かわれた方が」
護衛の筆頭として従ってきた烏である。常ならば烏一人だけがついて来るのだが、どうしても同行すると聞かなかった輝山の大臣のために、朱夏の隠密から三名が潜んでついて来ていた。
「それもそうだな。さ、今上さま。参りましょう」
「いや、そうは言ってもだな……」
何より、舎利と触れ合うところを見られるなど、気恥ずかしかった。そもそも、輝山の大臣が櫻花楼への微行に乗り気になったのが、朱夏には不思議だったのだが。
「それと、恐れながら輝山の大臣」
今にも歩き出しそうな輝山の大臣の後ろから、さらに烏の声が掛かる。
「何だ?」
「その、お忍びですので、御名をお呼びになりませんよう」
烏の言葉に、輝山の大臣がはた、と手を打った。
「成る程。こういった場では、通称のようなものを名乗るのだな?」
「主は、かの楼では夏の君と呼ばれております」
「……烏」
額を手で押さえた朱夏に構わず、輝山の大臣は興味深げに頷いている。
建国以来の名家出身で、都に生まれ育ち宮中で生きてきた輝山の大臣にとって、こうした忍び歩きは初めてのことであった。朝議の席で交わされる議題や配下の報告で、民の暮らしを知った気になってはいても、こうして直に目にするのとではやはり重みが違う。
「では、私も夏の君とお呼びしよう。さて、参りましょうか」
「何故そうも乗り気なのか……」
朱夏のぼやきに、輝山の大臣が上機嫌に返した。
「この祖父に隠しておられた気立てのよい娘。見てみたいのは当然でございましょう」
「だが……」
「それに」
口を噤んだ輝山の大臣に、朱夏は首を傾げた。
「何だ?」
「先帝さまが、独断で室にお迎えになられた方も、あの楼の出でございましょう?」
「……っ」
見返した祖父の瞳は、穏やかな声とは対照的に少しも笑っていなかった。
「二代続けて遊郭の女を召し上げるというのは、さすがに外聞が悪うございます」
「……」
「ですが、湊刃の養女になさるなら、その出自をどこにも漏れないように秘さねばなりません」
じっと櫻花楼の建物を見つめる輝山の大臣の声には、苛立ちや嫌悪といった感情は乗っていなかった。ただ、淡々と今後の予定を考えているかのようであった。
「湊刃の大臣が養女に迎えてもいいと、そう感じさせるほどの女ならば、私がこの目で確かめて万事整えたいと思います」
「……」
祖父から目を逸らし、朱夏は足を踏み出した。
花格子から白い手首が伸ばされるのを、輝山の大臣が不思議そうに見やった。その袖を引きながら、朱夏は扉前の用心棒の男に訪いを告げる。
「済まぬ。約束はしていない。楼主はおるか?」
「これは、夏の君。ようこそおいでくだせぇました。楼主を呼んでまいりやす」
「仕事を増やして済まぬな」
にっ、と笑って屈強な男が楼内へ姿を消した。
呆れたような声が朱夏に掛けられる。
「随分、慣れておいでのご様子で……」
「そんなわけなかろう。汐之を真似た」
「あの男は、夏の君の教育によろしくないようですな」
眉間に皺を寄せた輝山の大臣ではあったが、その口元は笑っていた。
旧家出身の重臣たちのように、己の権勢を誇るでもなく、実力があれば身分を問わずに取り立てる柔軟な考えの持ち主であるのだ。ただ、孫である朱夏の身を案じて、小言を口にしているだけだ。
腕を組んでみせた祖父に、朱夏はからかうように声を掛けた。
「其方も、ここで気に入った花ができるやもしれぬな」
「およしください。このような年寄りの相手をさせるのは、いくら何でも気の毒でございますよ」
胸の前で両手を振った輝山の大臣の頬は、軒先の明かりを受けて朱に染まっていた。




