佰伍拾肆
潮の香りが朱夏の頬を撫でた――。
帝の名の下に新造された大船、夏煌丸の進水式である。
大港に帝を始めとした宮廷の貴族たちが集い、大船が水に浮かぶ時を待っていた。
帝のために設えられた御覧席で、朱夏は大船にじっと目を向ける。あの船が、これから三名の外交官を乗せて大陸へと渡っていくのだ。とうとう、ここまで来た。
湊刃の船乗りたちが、夏煌丸の甲板に姿を見せた。船体と波止場を繋ぐ綱に斧を入れるのが、朱夏の席からでもわかった。本来ならば、船の外装だけが出来上がった状態で進水式を行うのが通例であるが、この大船は他の船とは違う。新たな帝の権威を示し、その治世において象徴としての側面を持つ。
すぐにも出航できるように、竣工を待っての進水式となった。
綱がすべて切り離され、巨大な船体が滑るように海面へと浮かぶ。航海の無事を祈る神官が、祝詞を唱え始めた。その周りを、盃を持った船乗りたちが囲む。
祝詞を唱え終えた神官が結びの言葉を述べると、周囲の船乗りたちが一斉に盃を地に叩きつけた。
おぉーっ、と大歓声が上がった。
朱夏は立ち上がり、酒の注がれた盃を高く掲げて口を開く。
「ここに、夏煌丸の進水を寿ぎ、新たな時代の幕開けを帝の名において宣言する」
再びの大歓声が大港に響き渡った。
盃の酒を一口飲み、朱夏は右に控える汐之に視線を向けた。
「海護隊の総隊長の名において、夏煌丸の航海を守護し、大陸との交易に助力を尽くすことを宣誓致します」
朱夏と同じく盃の酒を一口含み、汐之が一歩下がった。その横から、善有が前に出る。
「今上帝さまの御名において、外交官の長と任じられました。本日進水を迎えた夏煌丸にて大陸へ渡り、我が国の益となるよう尽力することをここに誓います」
善有が盃に口をつけた瞬間、割れんばかりの拍手が大港に響いた。苦い顔をしているのは旧家の重臣たちである。輝山の大臣は宮廷で留守を守り、朱夏たちの帰還を待っている。
「これにて進水の儀を終える。明日には夏煌丸の出航だ。見送りたい者は見送りに来るがよい」
朱夏の宣言で、その場に集っていた人々がそれぞれ散っていく。
御覧席の椅子に座り、朱夏は盃に残っていた酒を飲み干した。
「これで、明日の出航を待つばかりだな」
安堵したように呟く朱夏の側には、汐之と善有だけが侍っていた。親雪と築岳は、この港町の宿で明日に備えて休息を取っている。善有のことも早く休ませてやりたい朱夏だが、まだ打ち合わせることは残っていた。
「善有、これを其方に預ける」
朱夏が懐から取り出した書状を、善有に向かって差し出した。
盃を脇の小台に置き、善有が朱夏の前で膝をつく。両手で受け取った書状に、じっと視線を向けた。
「こちらは?」
「亜伊夜の国の王に、朕の名で書いた書状だ。国交を樹立したいという、公式の文だな」
僅かに目を見開き、善有は恭しく書状を掲げ持った後、用意してあった桐の小箱に親書を収めた。蓋を閉め、帝の色である紫紺の組紐で厳重に封をする。
「まずは唱洪の国で、これまで通りの交易を行う。あちらの外交官との顔繋ぎが主となるだろう」
「はい」
「此度の渡りで、亜伊夜の国と繋いでもらえるとよいのだが、初めから上手く運ぶとは思っていない」
「……」
跪いたまま、善有は言葉を挟まずに朱夏の話を聞く。
「唱洪の国で、外交官や貴族の心を掴み、亜伊夜の国と交流しているいずれかの者と親交を深めることが肝要だ」
「はい」
「やり方も人選も、其方らに任せる。朕は、其方らを信じているからな」
帝からのこの上ない称賛に、善有はこみ上げる思いを堪えた。
「海護隊の中にも、外国の言葉が堪能な者がいると聞く。困難に遭った際には頼るがよい」
「はい」
「密に文のやり取りをすることは難しかろうが、それでも、其方らからの知らせを待っている」
朱夏の言葉に、善有は深く頭を下げて答えた。
「必ずや、今上さまのお望みを叶えてご覧にいれます」
「期待している。そして……」
「はい」
「其方らが、無事に戻ることを信じて待っている」
深緑の瞳を見開いて、善有は無礼とわかっていながらまじまじと朱夏を見上げた。
「今上、さま……」
「其方も、親雪も築岳も。外交官である前に大切な朕の民だ。命を賭して、と輝山の大臣は申したがな。それでも、其方らが死ぬことは許さぬ」
「は……」
「必ず、三名ともに生きて戻れ」
そこまで言い終えると、朱夏は善有の返事を待たずに席を立った。
くるりと背を向け、汐之を伴ってその場を後にする。
地につくほどに頭を下げた善有の姿だけが、そこには残った――。




