佰伍拾参
「……それで、飲み比べになって親雪が圧勝した、と?」
決裁の書類に帝の署名をしながら、朱夏が小さく笑った。
右の席から汐之の笑い声も響く。
「いやあ。配下からの報告を受けて驚きました。秀聯の親雪、侮れませんな」
「気弱と言いながら酒豪とは、唱洪の国で行われるという酒宴でも、その存在感を発揮しそうですな」
答える輝山の大臣の声も笑い混じりである。
三名の外交官の若者が町へ下りるらしいとの報告に、よもや失態は犯すまいと思ってはいても、心配になった朱夏が汐之に監視を頼んだのである。酒の席では人が変わる者もいる。任命したその日の内に何事か起こさせるわけにはいかなかった。
そして今朝になって、汐之からの報告に朱夏は笑いを堪えられずにいるのであった。
「しまったな。茶を饗しての歓談ではなく、朕も酒を飲めばよかった」
「私も親雪と飲んでみたくなりましたね」
「お二方とも、なりませんぞ。今上さまと湊刃の大臣がともにでは、親雪は萎縮するでしょう」
嗜める輝山の大臣に肩を竦め、朱夏は手元から視線を上げた。
「いずれ、あの三人とは酒の席を設けるとして。まずは海を渡り外交官としての務めを果たしてもらってからだな。首尾よく運んだなら、労いの場を設けてやればよい」
「櫻花楼にも立ち寄ったそうですよ。外国の言葉を綴った書物を買いつけたとか」
「少しでも、言葉を覚えて臨もうという考え方がよいですな」
両大臣の言葉に頷き、朱夏は遠く海の向こうに思いを馳せた。
今こうしている間にも、煌姫がどれだけ恐ろしい思いをしているか。妙葵や春香は何を考えているのか。
それを思うだけで、朱夏の胸は潰れそうに痛む。だが、帝たる者、弱気になっているところなど誰にも見せられない。胸を焦がす焦燥を抑えつけ、新たに任じた三名の若者を信じて託すしかなかった。
そんな朱夏の内心に気づいているだろう両大臣は、何も言わずに朱夏の側に控え続けた。
執務の合間に、朱夏は烏だけを供に帝一族の廟が建つ山の中腹へと足を運んだ。
桜の巨木の根元に立って、都を見下ろす。爽やかな夏の風が朱夏の頬を撫でた。
この都を、四季の国を、己の手で守っていかなくてはならない。必ず煌姫を取り戻し、ともに並び立つのだ。
唇を噛みしめる朱夏に、烏がそっと声を掛けた。
「今上さま、先ほど本宮を出る直前に知らせが参りました」
「ああ。貴人牢につけていた隠密だな」
「先の第二室さまと、その侍女が息を引き取ったそうです」
「……そうか」
公には斬首ということになっている蓮黄と彩里。
服毒して長く患っていたが、意識が戻ることなく牢の内で亡くなったらしい。
「遺骸は?」
「元ご嫡男と同じく、都の外れの墓所へ」
「……あとは、妙葵だけか」
きつい眼差しで、朱夏は空を睨んだ。この場所からでは、海を見ることは叶わない。だが、空はどこまでも続いている。
同じ空の下、海の向こうにいるであろう妙葵を必ず捕らえ、煌姫を奪還するのだ。
「……私は、妙葵に何か、恨まれていたのだろうかな」
ぽつりと零された言葉に烏の眉が寄った。
「妙葵を知る者に話を聞いても、あのような大それたことを仕出かすような性格ではなかったと。私の印象もそんなものだった」
「……」
「何故、煌を連れ去るような真似をしたのだろうな」
何度も、心の内で繰り返した問いであった。だが、妙葵がこの場にいない以上、どれだけ考えても答えは出ない。
「今上さまと両大臣がお選びになった若者たちが、よい知らせを持ち帰ってくれることを待ちましょう」
「……うん」
「次の大船で、あの三名は海を渡ります。そこから亜伊夜の国までどう渡りをつけるのか、彼らの腕の見せ所です」
「……」
亜伊夜の国の王に宛てて、朱夏は丁寧な書状を認めているところであった。
手土産として、四季の国の果実を使った日持ちする菓子や、特産の絹地などを用意させているところだ。
幾度も書き損じ両大臣とも相談しながら、我が国との交流を考えてほしいと、誠実な文面にしようと苦慮している。
「築岳どのの話では、唱洪の国では亜伊夜の国とも交易しているようですから、唱洪の外交担当の者と何とか話をつけるでしょう」
「……」
「吾には外交のことはよくわかりませんが、朱夏さまがお選びになった彼らを信じておられればよいのです」
烏の言葉を聞きながら、朱夏はただ空を睨み続けた――。




