佰肆拾弐
ほとんど意識の戻ることがない母美紘の見舞いも済ませ、朱夏は表宮へと戻ってきた。
執務室に入り、輝山の大臣に帰還を告げる。
「夏勢院さまのご様子は、いかがでございましたかな」
「今日は随分とお顔の色もよく、寝台に座っておられた」
「それはようございました。ご正室さまは?」
「眠っておられた」
輝山の大臣にとっては、高貴な身分となっても娘である。心配げに眉を寄せる表情から朱夏は視線を逸らした。
執務机に着きながら、溜まった書類に手を伸ばす。
「第六室どののことを、また伝えられなかった」
「……左様でございますか」
「父上の衝撃を考えると、な」
書類をめくり文面を目で追うも、内容が頭に入ってこなかった。一つ息を吐き、朱夏は右の空席に目を向ける。
「湊刃の大臣は、そろそろ戻る頃であろうか」
汐之が本拠地である大港へ戻ってから、もうすぐ七日が経つ。清津に指示を出し、海護隊の編成について相談した後で戻ると言っていた。
「今のところ、帰還が遅れるという知らせもございませんからな。約束を違える男ではありませんよ」
「そうか……」
「湊刃の大臣が戻れば、外交官の選定が始まります。今の内に、志願書にしっかり目をお通しくださいませよ」
朱夏の目の前に積み上げられているのは、国中から集まった志願書であった。
大船に乗って大陸へ渡り、唱洪の国へ。その先の亜伊夜の国まで赴かせるためには、信頼できる者をしっかりと選ばなければならなかった。
「これまで、外交を担っていたのは仙螺でございましたからな。新たに文官から選ぶにせよ、今上さまが仰せになったように民から選ぶにせよ。それほど時はございませんぞ」
「わかっている」
以前に唱洪の国まで行ったことのある者からも、選定するつもりではあった。言葉の問題もある。経験のない者に一から学ばせてやれる時間はない。
何枚かの志願書に目を通したところで、執務室の扉が叩かれた。護衛のために立っている武官から、湊刃の大臣の訪れを告げられる。
「通せ」
開かれた扉から、するりと汐之が入ってきた。
朱夏の目の前まで歩み、流れるような動作で拝礼する。
「今上さま、ただ今戻りました」
「よく戻った。疲れたであろう」
壁際の烏に目配せし、茶を淹れさせた。
執務机から離れ、朱夏は汐之を長椅子へと誘う。輝山の大臣は、己の席に着いて書類を裁いたまま、会話に聞き耳を立てるつもりのようだ。
向かい合って座り、朱夏は口を開いた。
「性急で済まぬ。首尾は?」
烏が淹れた茶で唇を湿らせた汐之が、深く笑んで頷いた。
「清津に任せておけば問題ないとは思っていましたが」
「どうした?」
「あのやる気は、どうしたことでしょうな」
「うん?」
首を傾げた朱夏に、汐之が呆れたような視線を向ける。
「私の言うことも、常に聞くわけではないあの男が。貴方さまのためならば、老いた身に鞭打って海へ出ると、そう息巻いておりましたぞ」
「……」
「ですが、清津が大陸渡りの船に乗ってしまえば、大港を管理できる男がいなくなります。何とか思い留まらせましたが……いやはや、骨が折れました」
わざとらしく肩を竦めてみせた汐之が、机に向かう輝山の大臣に目を向けた。
「後に詳しく報告を上げますがね。少しでも早く大陸へ出航できるように、新造している船の工事を急がせるようですよ」
「本来ならば、先日出航した船が戻ってきてから、次の大船を出すのであったな?」
輝山の大臣の問いに、汐之が頷いて答える。
「つまり、大陸との行き来は、半年に一度。それが、これまでの通例でございました」
「半年……」
考え込んだ朱夏に視線を戻し、汐之が続ける。
「我が国から大陸までおよそ二月。唱洪の国で交易や積み荷の入れ替えに二月費やし、帰還するのにまた二月。我が国が所有する大船は二隻ですので、大陸から戻ってきた大船と入れ違いに、待機していたもう一隻の大船が出航します」
「その大船の回りを、湊刃の護船団が並走するのだな?」
朱夏の問いかけにも、汐之は頷いた。
「お偉い文官や商人、旅を目的とした民など様々な人間が乗る船です。大陸までの海上は、なかなかの大所帯ですよ」
その半年おきの大船の周期に、新造している船が割り込むということだ。
「其方も、護船団に参加したことがあるのか?」
朱夏の記憶では、汐之がそれほど長期に渡って宮中を留守にしたことはなかったように思う。
「大陸までついて行ったことはございません。護船団がきちんと働けているか、別の船を出して途中まで視察に行っただけです」
「視察……」
顎に手を当てて何事か考える朱夏の後ろから、輝山の大臣の厳しい声が飛んできた。
「今上さま。視察に行かれたとて、御身が海上に出ることは許容致しかねますよ」
内心を言い当てられ、朱夏は祖父に見えないように汐之に向かって舌を出してみせた。




