佰肆拾壱
つかの間の休息を貰い、朱夏は烏だけを供に藤の離宮へと足を踏み入れた。
父夏勢院と、その正室美紘が療養する離宮である。
静かに後ろを歩いてくる烏にそっと声を掛けた。
「其方がついて来ることはなかったのに」
「吾以外の誰を、お供になさるのですか」
「私が帝となってから、其方はますます休む間がなかろう?」
すれ違う人影もまばらな静かな離宮の回廊を、ゆっくりと進みながらの会話である。
聞き耳を立てているような重臣の配下も、年若い帝と侮るような武官もいない。
「吾は鍛えておりますから、ご心配には及びません。今上さまのお体の方が案じられます」
「……息抜きをさせてもらったからな」
先日櫻花楼を訪れてから、凛慈が献上品を届けに来る際に舎利の文を持参するようになっていた。
近頃天候がよくて気分がいい。
今日はお客の取り合いで喧嘩になった遊女の仲裁をした。
珍しい花が咲いたので、栞にして贈る。
そんな他愛もないことを綴ってくる舎利の文は、紙から香の香りが漂って朱夏の心を慰めた。
小さく笑みを浮かべた主君を見やって、烏は内心で溜息を吐く。遊郭の女などに、あまり心を寄せてほしくはなかった。だが、宮中で仕える侍女に手を出すのは、もっと危険だった。どこに誰の手が入っているかわからない。
朱夏を思うままに操ろうと、旧家の者たちが送り込んでいる侍女もいるはずなのだ。
それを思えば、しがらみのない舎利や凛慈に慰めを求めている方が、まだましなのかもしれない。
そんな烏の内心を知ってか知らずか、朱夏は機嫌よさげに歩き続けた。
離宮の主人の私室の前で、朱夏は立ち止まって護衛に訪いを告げた。武官の一人が室内へと入っていく。
許しが出て、扉が開かれる。
煎じた薬草の匂いが漂ってきた。
部屋の中央に置かれた大きな寝台の脇で、宮廷から派遣された薬師たちが動き回っている。
「父上、お加減はいかがでございますか」
寝台の上に起き上がり、背に枕を当てた夏勢院が、不自由な動きで朱夏に視線を向けた。思うように動けないらしい体を、薬師が横から支えている。
「……か、きた……」
「本日は、少しご気分がよろしいようです」
薬師の言葉に頷き、持参した花を控えていた侍女に手渡して朱夏は父に歩み寄った。
「ああ。お顔の色がよいようですね」
「ぁ、きょ……した?」
「輝山の大臣が休みをくれましてね。今日は、父上のお顔を見に参りました」
小刻みに震えながら何とか頷こうとする父の手を、朱夏はそっと取った。
「……幼い頃は、とても大きな手だと思っていましたのに。父上のお手は、こんなに小さかったですか?」
「そ……が、せい……ぅ」
「何ですか?」
首を傾げる朱夏に、一歩離れていた薬師が告げる。
「貴方さまが、ご成長なされたのだと、仰せです」
「私、が……」
目を丸くした朱夏に、夏勢院が微笑んだように見えた。
二人きりでの語らいをと言い残して、薬師たちが部屋を出ていった。何か急変があったらすぐに呼べるように、隣の小部屋に控えるという。
烏も会話の聞こえない壁際まで下がり、朱夏は寝台の脇に運ばせた椅子に腰を下ろした。
「海護隊という水軍を作りました」
「……ぅ、み?」
「ええ。唱洪の国との交易もこれまで以上に進め、国交のなかった国との交流も図ります」
震える父の指先に触れたまま、朱夏は帝になってからのことを少しずつ語る。
「仙螺の裁きは無事終えました。ご報告が遅くなって申し訳ありません」
「……か、りょ……?」
「……」
朱夏は唇を噛んだ。
寵愛深かった第六室であった琉兎の死を、まだ父に伝えられずにいる。
体調の戻っていない夏勢院に、衝撃を与えてよいものか躊躇われたのだ。だが、世話をするためにこの場に仕える者たちの中に、琉兎の姿がないことを不審に思っている様子であった。
仙螺が起こした罪についても、すべては伝えていなかった。
ただ、国を揺るがす重大事件を起こしたため、元大臣を裁き、元第二室と元嫡男を裁いたと、端的に報告しただけだ。罪をすべて話すということは、必然、琉兎の死にも触れることとなる。
朱夏自身が、冷静に語れる自信がなかった。
じっと答えを待つ父に、朱夏は安心させるように微笑みを浮かべてみせた。
「宮中は、新たな船の建造の話で持ちきりです。いずれは私も、外国に行ってみたいと思いますが、輝山の大臣が許してくれません」
「……」
「そうそう。新たに右の大臣として、湊刃の当主汐之が立ちました。面白い男ですね」
話題を逸らされたことに気づいているであろう夏勢院が、何も問わずに朱夏を見つめる。
「また参ります。次には、もう少しお言葉が回復されていることを願います」
そっと手を離して立ち上がる朱夏を、夏勢院はじっと見つめ続けていた――。




