佰参拾玖
漂う花の香りに微睡んでいた朱夏は、優しく肩を揺すられてゆっくりと目を開けた。
薄布の開けられた小窓から差し込む朝日の眩しさに、思わず瞳を細める。
「ご気分はいかが?」
歌うような柔らかな声に、小窓から視線を移した。
夜の化粧を落とした素顔の舎利が微笑んでいる。緩慢に手を伸ばし、朱夏はその白い頬をそっと撫でた。
「よく眠れました?」
「……あぁ。其方が淹れてくれた薬草茶のお陰だな」
「まあ、よかった」
くすくすと笑う舎利の頬をもう一度撫で、朱夏はゆっくりと寝台から身を起こした。
櫻花楼の最上階。汐之と凛慈の視線から逃れるように上がってきたこの部屋で、甘えることを許してくれる舎利の瞳に負けてしまった己は情けない。
そんな内心に気づいているのかどうか、舎利が部屋の中央の卓に運ばれてきた膳を指した。
「さ、朝餉を召し上がって、お戻りにならないと」
差し出された手を取り、朱夏は立ち上がった。身動ぐ度に、舎利から移った香の香りが己の全身から漂う。
「其方の素顔を初めて見たな」
盥の水で口をゆすぎ、顔を洗ってさっぱりした朱夏は、卓の前に座って舎利の顔をまじまじと見つめた。
朝の茶を淹れながら、恥じらうように舎利が頬を染める。
「あんまり見ないでくださいましよ。遊女はお客に素顔を晒さぬもの。恥ずかしいじゃないですか」
「では、何故?」
首を傾げた朱夏に、舎利の顔がますます赤くなる。
「そりゃ……昨夜はお客と花じゃなく、その……」
口を噤んだ舎利の様子に、朱夏はああ、と頷いた。そして、己の頬も熱くなるのを感じた。
気まずくなって視線を逸らし、朱夏は箸を手に取った。
「そう言えば、私の側近は夜の内に来たのであろうか」
空気を変えるようにそう口にすれば、給仕に動いていた舎利が頷く。
「楼主が一度、この部屋に様子を見に来ましたよ。朱夏さまはよくお休みだったので、朝になってから報告に来るって言ってましたねぇ」
「そうか。では、手早く食べ終えねばな」
己が呑気に眠っている間に、烏は黄駕の遺骸を移したことだろう。汐之はどうしたであろうか。櫻花楼で、別の遊女を買って夜を過ごしたのだろうか。
食事を終え、ゆっくりと茶を飲んでいると部屋の扉が叩かれた。
舎利が立ち上がって扉に近づく。
「どちらさま?」
「凛慈だ。夏の君はお目覚めか?」
外から聞こえた声に、舎利が朱夏に視線を寄越す。頷いてやると、開かれた扉から凛慈が顔を見せた。
「おはようございます。ご気分はいかがですか」
「よい気分だ。汐……私の供はどうした?」
「朝の早い内に、一度お戻りになりましたよ。夏の君の祖父君に、お戻りになられるまでご心配なさらないように伝えに行くと」
「そうか」
これは本宮に戻ったならば、祖父の説教が待っているのかもしれない。
溜息を堪えて朱夏は立ち上がった。
「世話になった。若君は、首尾よく移動できたろうか」
「ええ。側近どのが、他に二名ほどお連れになって、大きな木箱に収めて行かれました」
「そうか」
身支度を整えようとして、手元に昨夜着てきた女性用の衣と裳しかないことに気づく。
どうすべきかと考え込む朱夏に、凛慈が穏やかに声を掛けた。
「お召し替えも、お持ちすると仰せでしたから、お待ちになっては?」
「だが、昨夜の片づけと今夜の支度に忙しいであろう?舎利もこれから休む時間であろうに」
「滅多におられませんが、この楼には『居続け』という制度もございます。そういったお客さまの目に入らないところで、夜の支度をするのが作法というものです」
気に入った遊女を、楼内に留まって二晩続けて買う客のことである。
「まあ、そういったお客さまは、そもそもお部屋から出てこられませんがね」
悪戯っぽく告げる凛慈に目を丸くしていると、さらに扉が叩かれた。
一度閉じていた扉が開かれ、汐之が烏とともに顔を覗かせる。
「ああ、ご気分よく目覚められたようですね。顔色が、随分よくなられた」
「昨夜はお側を離れましたこと、申し訳ございませぬ」
静かに室内に入ってくる二人に、凛慈がわざとらしく目を丸くした。
「おやおや。ここは櫻花楼でも最上の、出入りを制限された部屋なんですがねぇ。お二方とも、どうやって上がってこられました?」
首を傾げて口角を上げる汐之と、苦虫を噛み潰したような烏の表情に朱夏が首をひねる。
「烏?」
「ああ、いえ。こちらの御方は、さすがと言うか何と言うか……」
困ったような視線を向けられた汐之が、肩を竦めて口を開いた。
「そりゃあ、昨夜過ごした女に呼ばれたと、言い訳したに決まっているではないですか」
目を丸くした朱夏の隣で、凛慈の纏う空気が冷え冷えとしたものに変わる。
「用心棒として失態ですね。仕置きが必要か」
その言葉に聞こえなかった振りをして、朱夏は烏から手渡された装束にさっさと袖を通したのだった。




