佰参拾捌
下男に案内されて小部屋を出る朱夏の背を見送って、汐之は佇む凛慈に視線を戻した。
「お前が、あの御方と懇意にしているとは思わなんだ」
口を開いた汐之の顔には、笑みが浮かんでいた。からかうような口調に、凛慈も微笑みを返す。
「懇意、と言えるほどにはおつき合いはございませんよ。貴方さまこそ、随分入れ込んでおいでのようで」
楼内の雑務を担当する見習い遊女が運んできた茶器の盆を受け取り、きっちりと扉を閉めた凛慈が薬草茶を淹れる音が漂った。
差し出された茶を一息に呷った汐之は、笑みを消して凛慈を見据える。
「この櫻花楼で、金子を払わせず女を抱かせるとは。お前らしくもない。あの御方のご身分に遠慮するような玉でもなかろうに」
汐之の言葉に苦笑を返し、凛慈も薬草茶に口をつけた。
「そうですねぇ。私は、楼を挙げてあの御方に助力すると、そう決めたのですよ」
片眉を跳ねさせた汐之が、無言で先を促す。
「まだお若い。青い理想をお持ちでもある。それを実現できない己の無力もよく、わかっておいでだ」
「……」
「違法な遊郭などなくすと、幼い頃に誓われたそうで。それなのに、その遊郭の世話になっている己の矛盾した振る舞いに、お心を揺らしている」
くすりと笑いを漏らし、凛慈は汐之を真っ直ぐに見返した。
「それでも、あの御方はこの楼の花たちを、楼主である私を、見下すことは決してなさらなかった」
「……」
「同じ四季の国に生きる民としてしか、見ておられない。国の頂に立つ御方が、あれほど素直で大丈夫なのかと、心配になるほどです」
凛慈の評に汐之の表情が苦いものへと変わった。
「柔軟と言えば聞こえはよいが」
「そうですね。これから政の中心に立たれ、外国との交渉も盛んになれば自ずと荒波に揉まれるでしょう」
汐之が右の大臣として政治の場に立ったことで、凛慈が今言ったようなことは現実となるだろう。
「そんなあの御方が、奥方さまを取り戻されるまで、気を張りつめたままでおられるのは見ていられず。つい、手を差し出したくなるのですよ」
「……それもまた、人徳か?」
「葛藤もございましょうが、慰められる場と時がなければ、人は立っていられなくなりますから」
腕を組んで天井を睨んだ汐之が、溜息を零して凛慈に視線を戻す。
「先ほど仰せだった、側近どのが何か引き取りに来るというのは?」
「おや。私がお客さまの秘事を、晒すとお思いですか」
「主君の御身に害がないならよい。だが、知らぬままでは、いざという時に守れん」
汐之の言葉に、凛慈が笑みを深くした。
「貴方さまも、真っ直ぐなご気質でございますねぇ。この楼の花たちにも、お慕いしている者が多くおりますよ」
「茶化すな」
「海に生きる、勇敢で優しい美丈夫。勤めに疲れた花たちが、心の内で想うくらいは許されますでしょう?」
腕を解いた汐之が、身を乗り出して凛慈に詰め寄る。
「いいから、話せ。この櫻花楼に、あの御方は何を隠しておられる?」
「……仙螺の若君」
「っ!」
一層声を潜めた凛慈の囁き声に、汐之は深い緑の瞳を極限まで見開いた。
「そりゃあ、また……大層な秘事だな」
仙螺の元嫡男は、貴人牢に捕らえた後で斬首としたのではなかったか。処罰場で朱夏はそう宣言したはずだった。
あの時己はまだ大臣の位に就いてはいなかったが、あの場に他の重臣たちとともに集っていたのだから。
「いや、しかし……何故この楼に?」
「あの御方のお許しを得ておりませんので、すべては話せませんが。若君はね、この楼でも大層恨みを買っておいでだったのですよ」
傲慢に鼻を鳴らして嗤う黄駕の姿が、汐之の脳裏に蘇った。海の男である汐之のことを、常に見下して馬鹿にしているような典型的な都の貴族であった。
「この楼で花たちの私刑をお許しくださった夏の君に、花たちも恩義を感じております」
「それで、寄って集って甘やかしているのか」
汐之の乱暴な纏め方に、凛慈は思わず吹き出した。
「貴方さまも、甘やかすおつもりなのでは?」
そうでなければ、輝山の大臣の目を盗んで櫻花楼へと忍ばせてはこないだろう。念入りに、女装までさせて。
こちらの内心を見透かしていそうな凛慈の視線から、汐之は黙って逃げ出すこととした。




