佰参拾漆
宵闇に、櫻花楼の建物が明かりを受けて浮かび上がった。
入口には、以前に朱夏が訪れた時と同じように、用心棒が立っている。
花格子から、遊女たちの白い手首が差し出されていた。その前を、町の男たちが品定めするように通り過ぎていく。
汐之がゆったりとした足取りで用心棒に近づいた。女連れで遊郭に来る者など、そうそういない。
警戒した様子だった男の顔が、寄ってきたのが汐之であることに気づいて緩んだ。
「これは、海の旦那。ようこそおいでなさいまし」
「予約はしていないんだが、またしばらく港に戻ることになってな。夢のひとときを買いに来た」
「そうですかい。楼主は奥においでです。……そちらさんは」
汐之から朱夏に視線を移した男の瞳が見開かれた。変装していても、以前に訪れた朱夏の顔を覚えていたのだろう。
「日の……」
「その名は呼ばずにいてくれぬか」
唇に人差し指を立てた朱夏の言葉に、慌てたように男が頷く。通りを歩く町の男たちに、朱夏の素性に気づかれたくはなかった。
楼内に入り廊下を進みながら、汐之が首を傾げた。
「まさか、常連とは仰せになりませんな?」
朱夏が櫻花楼で過ごしたことがあると掴んではいても、用心棒と顔なじみであるほどとは思わなかったのである。苦笑して朱夏は答える。
「そのようなはずあるまい?さすがに客商売だな。用心棒の男でさえ、一度訪れただけの相手の顔を覚えているとは」
実際、朱夏が舎利と夜を過ごしたのはたった一度のことである。それ以前に訪れた時には、琉兎の弔いと黄駕への尋問のためであった。色事になど無縁の、どちらかといえば血なまぐさい理由で訪れた。
遊女を指名するための小部屋へと通される。座ってすぐに、扉が開かれ凛慈が入ってきた。
「これは、お珍しい組み合わせで」
宮中に参内する時の袍とは違って、ゆったりとした衣を身に纏った凛慈が室内の二人に近寄る。
「凛慈。知らせを貰って来たのだが……後で烏が引き取りに来る」
その言葉だけで朱夏の言いたいことを察し、凛慈は微笑んで頷いた。
「あの側近どのがおいでになりますか。では、それまでは地下に置いたままにしておきましょう」
そして、凛慈が汐之に視線を向ける。
「この度は、高き御位に上られましたこと、お慶び申し上げます」
「耳が早いな?」
朱夏の隣で汐之がくつくつと笑った。
「情報を早く正しく掴むことも、商人として必須の能力でございますよ。さて、今宵はどの花と、夜をお過ごしになりますか」
腕を組んで考える汐之が、ちらりと朱夏に視線を投げる。
「貴方さまは、お決まりでございますか」
「だから、私は買わぬと……」
「ここまで来て、それはないですよ。女たちにも矜持というものがありますのに」
「それは……」
小部屋の扉が叩かれ、凛慈が朱夏たちの側を離れた。耳元で、汐之が囁いてくる。
「懇意になさっているお相手がいるのなら、遠慮なくお過ごしになられればよい。金子の心配はご無用ですよ」
「そういう問題ではない」
「では、どういう問題で?」
きょとん、と首を傾げる汐之に、朱夏が答えようと口を開きかけた時凛慈が戻ってきた。
「お話し中、失礼致しますよ。えぇっと……夏の君」
「私のことか?」
「以前の呼び名では、不都合がありそうですので。それで、夏の君。我が楼の花が、今宵貴方さまに夢のひとときを捧げたいと申し出ておりますが、いかがなさいますか」
凛慈の言葉に、朱夏の隣に座る汐之がぴゅうっと口笛を鳴らした。他の重臣たちがいる前では、決して見せない姿である。
「汐之?」
「いや、失礼を。なかなか、櫻花楼で女からそう言ってもらえる男はおりませんからな。羨ましい限りです」
「そういうものか。だが私は……」
眉間に皺を寄せた朱夏に、凛慈が困ったように微笑みかけた。
「何卒、花に恥をかかせないでやってくださいませ」
「恥?」
首を傾げる朱夏に答えたのは汐之である。
「女の方から、貴方さまと過ごしたいと。もっと有り体に言ってしまえば、抱いてほしいと申し出るのは、相当の勇気がいることです。断られたりなどすれば、その女は明日から朋輩の笑い者です」
「……」
「ここは、貴方さまの懐の深さを見せてやるべきですな」
朱夏の脳裏に浮かんでいるのは、舎利ただ一人であった。だが、一度はその肌に触れた身とはいえ、そう何度も煌姫を裏切ってもよいものか、朱夏にはわからなかった。
ぽん、と朱夏の背が軽く叩かれた。
「……汐之?」
「申し上げましたでしょう?熱を、そのお身の内に溜めるのはよくない、と。ここでのひとときは、決して外には漏れないのです」
「其方は知っていたろう?」
じっとりと隣を見上げると、汐之は豪快に笑いだした。
「櫻花楼近くの通りを、本宮に向けて戻られるお姿の目撃談を聞いただけでございますよ。あんなにあっさり、引っ掛かってはなりません」
片目を瞑ってみせた汐之に溜息を吐いて、朱夏は立ち上がる。
ここで押し問答を続ける気力が、すでになくなっていた。




