佰参拾肆
帝の冠を脱ぎ捨て、朱夏は執務室の長椅子に寝そべった。床に放られた冠を、烏が拾い上げて丁寧に執務机の上に置く。
「お行儀が悪うございますよ、今上さま」
「誰もおらぬ。喉が渇いた」
「今、茶をお淹れします」
壁際から茶器を扱う音が微かに朱夏の耳に届いた。仰向けに転がり、天井を睨む。
朱夏が予想していた通り、汐之の大臣就任は快く迎えられる話ではなかった。反発もあると思ってはいた。だが、今朝の朝議で水軍の編成まで話を進められず朱夏は苛立った。煌姫の奪還が遠のいたような気がして唇を噛む。
かちゃりと音を立てて、湯気を立てる茶器が卓に置かれた。
「櫻花楼より献上された、薬草茶でございますよ」
「……糖蜜は?」
「一滴垂らしてございます」
のろりと起き上がり、朱夏は茶器を手に取った。爽やかな香りが鼻腔を擽る。
目を閉じて香りを楽しんでから、朱夏はゆっくりと茶器を傾けた。
「美味い」
「よろしゅうございました」
「凛慈に礼状を書かねばな」
茶器を卓に戻し一息吐いたところで、執務室に輝山の大臣と湊刃の大臣が並んで入ってきた。
「失礼致します、今上さま」
「おや、よい香りが致しますね」
鼻をひくひくと動かす汐之に苦笑し、朱夏は卓を指した。
「櫻花楼からの献上品だ。其方らも飲むか?」
「よろしいのですか?」
「では、お言葉に甘えまして」
朱夏の向かいに座った両大臣のために、烏が再び茶を淹れる。
薬草茶の香りが広がる中、輝山の大臣が口を開いた。
「いやはや、予想以上に荒れましたな」
「反対の声は出ると思っていたが。あれほどとは」
二人の言葉に、汐之が肩を竦めた。
「あの方々からすれば、私は粗野な野蛮人ですからね」
「だが、其方らが海を守ってくれているからこそ、この国は安寧の中にあるというのに」
「現場をご存知ない方というのは、そういうものです」
笑い混じりに告げられた言葉に、朱夏は溜息を吐く。名家旧家出身の老人たちが固める重臣の座も、考え直すべきであろうか。
烏の手で淹れられた薬草茶が、卓の上に並べられる。
「これは珍しい。唱洪渡りの薬草茶ですか」
目を丸くした汐之が、優雅な仕草で茶器を手にした。
「櫻花楼の楼主は、唱洪の国と取引しているようでな。まだこの国に出回っていない珍しい品を、時機を見極めながら流通させようとしている」
汐之の隣で薬草茶に口をつけていた輝山の大臣が、小さく首を傾げた。
「櫻花楼の楼主と、それほど深くつき合いがございましたか?」
茶で喉を詰まらせかけた朱夏であったが、ぐっと堪えて笑みを浮かべた。
「この国一番の大店だぞ?今後は国外との交易に力を入れると宣言したのだ。流通を担う櫻花楼とは、それなりによい関係を築いておかなくてはなるまい?」
朱夏の言葉に、大臣は顎に手を当てて考え込む。じっとりと手に汗をかいた朱夏であったが、以前汐之に指摘されたことを思い浮かべて表情に出さないように気をつけた。
ちらりと汐之に目をやると、悪戯を見つけた童のような表情で朱夏を見ていた。すっ、と視線を逸らす。
「ご立派なお考えではございますが、櫻花楼についてはよくない噂も耳に致します。あまり御心を寄せすぎませぬよう」
「わかっている」
安心させるように祖父に頷いてみせ、朱夏は話題を変えた。
「それで、水軍の編成と大陸への渡航だが。目処はつきそうか?」
その問いには汐之が答える。
「人手自体はあまり変わりませんから、それほど時は頂戴せずに済むと思われます。問題は、大陸へ渡り亜伊夜の国へと派遣する人材の方ですな」
「唱洪の、さらに先であったか」
「ええ。我が湊刃といえども、砂漠を越えたことはありませんから。準備は入念に整えねばなりません」
茶を飲み干した輝山の大臣が、空になった茶器を烏に差し出しながら尋ねる。
「輝山が多く抱える文官たちも、唱洪の国までは赴いたことがあると思われますが。さすがに国交のない亜伊夜の国までは……」
「だが、妙葵は旅したことがあった」
朱夏の呟きに、両大臣が押し黙った。
「つまり、個人で旅をしたことがある者は、案外近くにいるやもしれぬということだ」
「探し出しますか」
「う、む……そうだな。だが、そちらにばかり気を取られているわけにもいかぬ。亜伊夜の国に赴いたことのある者を、文官や武官だけでなく広く市井からも探す。商人の方が、可能性が高いやもしれぬからな。並行して、我が名を冠した船の建造にも着手せよ」
朱夏の茶器にも薬草茶を注ぎ、烏は壁際に控えて会話をじっと聞いていた。
「それと、輝山の大臣」
「はい?」
朱夏の指示を懐から取り出した上質の紙に書きつけていた大臣が、顔を上げて朱夏を見た。
「夏の宮を、封鎖したい」
「封鎖、でございますか」
「火事の跡が綺麗になってからでよい。あの宮は、煌を無事に取り戻すまで、誰にも入れさせぬ」
すでに、帝の位を継いだ朱夏の過ごす場所は、この本宮である。夏の宮を与えられる親王がいない状況では、建物の管理のために幾人かの侍女や下働きがいるだけの宮であった。
煌姫と穏やかな時を過ごした夏の宮に、彼女が戻るまで朱夏は足を踏み入れるつもりはなかった。




