佰参拾伍
夜の帷が本宮を包んだ夜更け過ぎ。
籠宮の帝の寝所で、朱夏は一人目を閉じて座っていた。湯浴み前に届いた、櫻花楼からの文が目の前の卓に放られている。差出人は舎利であった。
仙螺の黄駕が地下室で息を引き取ったとの知らせである。何故凛慈ではなく舎利から知らせてきたのかと思い、最後まで書面に目を走らせると、結びに「お会いしたい」と書かれていた。
朱夏ももう一度舎利に会いたいとは思う。あの群青の瞳が、弱音を吐く朱夏を包んで甘やかしてくれるのはわかっている。だからこそ、縋ることはできなかった。
溜息を吐き出し、朱夏はゆっくりと目を開けた。こんな刻限から、市井に忍んでいくことはさすがに烏が許さないだろう。かと言って、櫻花楼の稼ぎ頭を本宮に呼びつけるわけにもいかない。
いや、違う。縋ることはしないと決意したのではなかったか。己はこれほど、心弱い男であったろうか。
自問を繰り返す朱夏の耳に、密やかに扉を叩く音が届いた。
「……誰か」
「汐之でございます。入ってもよろしゅうございますか」
とっくに湊刃の屋敷に帰ったと思っていた大臣の声に、朱夏の目が見開かれた。このような夜更けに、何か緊急の用事であろうか。
「入れ」
短く答えると、静かに扉が開かれた。外には護衛の武官も立っている。危険なことは何もないはずだ。
「どうした?」
「お寛ぎのところ、申し訳もございませぬ」
眉を下げた汐之が、扉を閉めてこちらへと歩んできた。
「何か急用か?」
「一度、大港へ戻ろうかと思います」
「大港へ?」
首を傾げた朱夏の前で跪き、汐之は深く笑んでみせた。
「清津とも、水軍の編成について打ち合わせたいと思っておりまして」
「そうか。どのくらいの期間だ?」
「七日ほどいただければ」
湊刃の本拠地、大港まで馬を飛ばして一日半。間の四日で、清津に指示を出してくるという。
「いつ発つ?」
「家の者に諸々引き継いで、明後日の朝に」
「そうか。また重臣たちが騒ぐであろうな」
帝の右の大臣が、その側を離れるなど何たることかと、朝議の場で騒ぐ重臣たちの姿が目に浮かぶようだった。
「必要なことですから、後で黙らせます」
その言葉に吹き出し、朱夏は頷いた。
「許そう。気をつけて行って参れ」
「はい。それでですね」
「何だ?」
にっこりと笑った汐之が、朱夏に向かってすっと手を差し出した。
「汐之?」
「明日の夜、私とお忍びで出かけませんか」
「は?」
何を言われたのかわからず、朱夏はぽかんと口を開ける。
「大港への往復の間、女っ気なしではちと寂しいですのでね」
「……汐之?」
「男が夢のひとときを過ごす場所へ、おつき合いいただけませんか」
悪戯そうな声で告げられた内容に、朱夏は目を剥いた。
「それ、は……」
「勿論、輝山の大臣には秘密ですよ」
唇の前に人差し指を立てた汐之が、さらに続ける。
「今上さまが煌姫さまに操を立てて、宮中の侍女たちにお手をつけないのはわかっております。ですが、お身の内に熱を溜めすぎるのはよくありません」
「……」
「私の大臣就任への祝いだとでも思って、おつき合いいただけると嬉しく思います」
口を閉じた汐之をまじまじと見つめて、朱夏は苦笑を浮かべた。
「昔、父上にも似たようなことを言われたな」
その言葉に、汐之が目を丸くする。
「おや。夏勢院さまが、市井に忍んで行くのにつき合えと?」
「ああ、いや。そちらではなく。適度に欲を発散させろと、親王時代に言われたものだ」
市井に忍んで妙な遊びを覚えずに、春香に夜の手ほどきをしてもらえと言っていた。あれはいつ頃のことであったか。
そうだ、琉兎を第六室として迎える日の朝だった。ああ、あの頃側にいた皆が、何故今側にいないのだろう。
朱夏の胸の内を黒いものが覆う前に、汐之の軽い笑い声が現実へと引き戻した。
「さすがは夏勢院さまですな。ご自身も大層華やかな女人遍歴でございましたが」
正室である美紘と、五人の側室を抱えていた。すでに奥宮は解体され、第三室から第五室までの側室たちは、それぞれ生家に戻っている。床に伏せったままの美紘は、夏勢院とともに藤の離宮へと移った。
「それと、汐之」
「はい?」
「朕は、遊女は買わないぞ」
朱夏の言葉に片眉を上げ、汐之が首を傾げてみせた。
「おやおや。私は行き先をお伝えしましたかな?」
「其方と言葉遊びをする気分ではないのだ。朕の私的な部分について、其方に筒抜けか?」
肩を竦めた汐之が、ちらりと扉に目を向けて声を潜めた。
「どこに目があるかわからぬもの。これまで以上に慎重に、行動なさるべきです」
つまり、即位前に朱夏が櫻花楼で夜を過ごしたことを、汐之は知っているということだ。
「助言をしに来たわけだな」
「いえ、本気でお誘いに来たのですが」
「其方……」
立ち上がり、汐之は片目を瞑って微笑む。
「男同士、何も恥じることはありませんよ。輝山の大臣は今上さまの祖父君。さすがに知られるのはお恥ずかしいかもしれませぬが、私とならば気楽に出かけられましょう」
「……」
「明日の夜、お迎えに参ります。勿論、その時になってお断りになってもようございます」
笑みを深くして、汐之は帝の寝所を出ていった。
残された朱夏は溜息を零す。折良く舎利から文が届いたところであるし、黄駕の遺骸も引き取らなければならない。
罪人として、仙螺代々の墓所に葬ることはできないが、それでもあの無縁廟に入れさせるわけにはいかなかった。




