佰参拾弐
かたり、と朱夏が盃を卓に置いた。
真っ直ぐに緑の瞳を覗き込んできた朱夏に、汐之も盃を置く。
「仙螺の顛末は、聞いているだろうか」
静かな問いかけに、汐之は頷いた。
「国を揺るがす重大事件ですな。帝の右の大臣を輩出し続けた仙螺家が、まさか取り潰しとは」
「朕も残念ではある。そして現在、右の大臣は空位だ」
「今上さまの治世を盤石とするためにも、お早く決められた方がよろしいでしょう」
しばらく見つめ合い、朱夏はそっと息を吐く。次の言葉を口にすれば、もう後には引けなくなる。
膝の上で拳を握りしめ、朱夏は口を開いた。
「朕の治世において、右の大臣を其方に務めてもらいたい」
「……」
「そして、湊刃のその水軍を、その強大な力を貸してもらいたい」
軽く顎を引き、汐之が無言で続きを促す。唇を舐め、朱夏は何とか頷いてもらおうと言葉を重ねた。
「仙螺の起こした事件によって、現在朕の正室は行方知れずとなっている。勿論これは、民には秘匿する。だが、すでに重臣たちには知られてしまっている」
「……」
「これまでの調査で、おそらく我が妻は亜伊夜の国に連れ去られてしまったのではないかと考えている」
握った拳が震える。だが、ここで誤れば恐らく汐之の同意は得られない。
背を伝う汗に気づかない振りをし、朱夏は続けた。
「朕は妻を取り戻したい。私情も勿論あるが、四季の国の帝としても、一族の高貴な姫を連れ去られたままにしておくことはできぬ」
「……」
「そのためには、亜伊夜の国に渡る術がどうしても必要なのだ。其方の、湊刃の力を貸してくれぬか」
何も答えない汐之の様子に、朱夏の胸に焦りだけが募っていく。
額から汗が噴き出した時、汐之がようやく口を開いた。
「今上さま。臣下を口説くのに、そのような表情を見せてはなりません」
「え……?」
「焦っている。必死になっている。何とか頷かせたい。そのような感情が、丸わかりになっております。それでは、舐められますぞ」
はっとして、朱夏は袖口で額の汗を拭った。
「帝というものは、もっと堂々としておいででなくては」
「そう、だな」
「ですが、私のような男には、好ましく映ります」
「え?」
いつの間にか、汐之の口元には柔らかい笑みが浮かんでいた。朱夏は首を傾げる。
「好ましい?」
「帝としてはまだまだでございます。ですが、妻を奪われ平静でいられるような男では、心からお仕えしたいとは思いませんからな」
「……」
途端、朱夏の頬に朱が走る。それを面白そうに眺めて、汐之は続けた。
「私は煌姫さまにお目見えしたのは数えるほどしかございませんが。愛らしく、貴方さまを一心に慕っておいでのご様子を、微笑ましく見ておりました」
「……」
「亜伊夜の国は、奔放な国。あの愛らしい姫君が、穢されるやもしれぬなど、ただの臣下であるこの身であっても胸が引き裂かれそうです」
唇を引き結び、朱夏は視線を下に向けないように必死だった。
「私を右の大臣として、亜伊夜の国と交流を図られるおつもりですか」
「ああ」
首肯した朱夏に頷き、汐之はふっと笑いを漏らした。
「私めがお役に立つのなら、どうぞお使いください」
「汐之……」
「清津からも、心根の真っ直ぐな親王さまであったと文を貰いましたからねぇ」
その言葉に、朱夏は目を丸くした。ほんの一晩、通りすがりに会話しただけのような男であったのに、そんな文を書いていたとは思わなかったのだ。
「しかし、私もまだまだ、輝山の大臣のように老獪にはなれませぬよ。それでもよろしいか?」
「無論だ。朕とて帝になったばかり。ともに成長してくれるのなら、こんなに嬉しいことはない」
汐之の片眉が上がった。
「……評を変えますか」
「え?」
「真っ直ぐではあるが、お優しい部分の目立つ年若い帝。そう思っておりましたが、案外人たらしの才能がおありですな」
汐之の言葉の意味が掴めず、朱夏は首を傾げた。
「臣下を口説くのもお上手ではない。言葉を飾ることもまだおできにならない」
「……」
「だが、相手の懐に入り込み、その心を溶かして掴む才能がおありのようだ」
くつくつと一頻り笑った後、汐之は姿勢を正して朱夏を見つめた。
「右の大臣、謹んでお受け致します」
深く頭を下げる汐之にこそ、懐の深さを朱夏は感じていた。




