佰参拾壱
がっしりとした体躯の日に焼けた男が、動きやすさを重視したような簡素な装束を纏って部屋へ入ってきた。
元は淡い茶色であったろう髪が、海上の強い陽射しを受けて焼けたように白くなっている。その髪を頭の上で一つに纏め上げ、深い緑の瞳で朱夏を見つめた後に頭を下げた。
「湊刃が当主汐之、お召しにより参上致しました。新たな今上帝さまに、ご挨拶申し上げます」
表宮の一室。宴会を開く大内殿ではなく、少人数で酒を酌み交わせるそれほど広くない部屋での邂逅であった。
上座で待っていた朱夏は、大柄な男を座したまま見上げる。
「急に呼び出して済まぬな。其方と、じっくり話をしてみたいと思ったのだ。掛けて楽にしてくれ」
「ありがたきお言葉」
短く答え、湊刃家の当主が朱夏の向かいに座る。ちらりと、朱夏の背後に立つ烏に目を向けた。
「朕の側仕えがどうかしたか?」
「ああ、いえ。黒装束が動きやすそうでよいな、と」
その言葉に、朱夏の口元に笑みが浮かぶ。貴族の出自ではない烏を侮る者は多くいる。夏勢院が直々に朱夏付きにしたことを、面白く思わない者もだ。
中には直接、朱夏の側付きを退けと圧力をかけた者もいた。そのすべてを、烏は実力で黙らせてきたが、名家の当主である汐之の真っ直ぐな称賛には動揺したようだ。珍しく視線を彷徨わせている。
「それは朕も常々思っていてな。だが帝たる者、動きやすいだけの装束を纏うわけにもいかぬ」
「それはそうですな。四季の国の頂に立つ御方が、装飾のない簡素なものをお召しになるのは重臣方がよい顔をなされますまい」
深く落ち着いた声が、朱夏の胸の内に染み入ってくる。心地よい、と朱夏は思った。
給仕の者を下げ、護衛に烏だけを置いての酒宴が始まる。
「これは、美味い酒ですな」
あっという間に一瓶空にした汐之は、顔色も変えずに肴に箸をつけた。
「輝山の大臣が、屋敷に大切に秘蔵していたものをな。今宵のために差し出してもらった」
「それは恐れ多い」
そう言いながら、盃を口に運ぶ手を止めない汐之に朱夏も笑顔を浮かべる。
「其方とこうして、差し向かいで酒を飲むのも不思議な気がするな」
「私めは、月の半分ほどは港におりますからな。なかなか伺候できず、今上さまにもお目通りが叶わぬことも多い」
初めの一杯だけは朱夏が手ずから注いでやり、その後手酌で延々と酒を飲む汐之は、粗野な見た目とは裏腹に美しい所作であった。
「それは、大陸渡りの大船が出る、大港か?」
朱夏の問いに汐之の手が止まる。箸を置き、姿勢を正して朱夏を見つめてきた。
「そう言えば、先ごろ今上さまも赴かれたのでしたな」
「清津から知らせがあったか」
港町を出る時に、清津から手渡された湊刃の当主宛ての書状。輝山の大臣は、正しく渡してくれたようだ。
「あの男は、湊刃本家の出ではないのですが。海を愛し、海に生きる人々を愛し、船を愛しています。海と婚姻したようなものです」
その言葉に朱夏は思わず吹き出した。
「海と婚姻とは、面白いな」
「あの大港は水運の要。指揮を任せられるのは、当代ではあの男がもっとも適任でした」
荒くれ者が多いと言われる船乗りたちが、親父っさんと呼んで慕っていたさまを思い出し、朱夏も頷く。
「朕にも休む場を貸してくれた」
「おや。今上さまのお役に立てたのならば、幸いでございますな」
「先ごろ訪れた際には目にすることが叶わなかったが、湊刃の水軍もあの大港を守っているのか?」
酒で唇を湿らせ、朱夏は尋ねたかったことを口にした。
朱夏の問いかけに、汐之が腕を組んで考え込む。
「港を守るというよりは、航海の護衛が主ですな」
「航海の護衛?」
「護船団です。大陸までの二月の旅路を、大船に添うように守りながら進むのです」
海を知らない朱夏にわかりやすく説明しようと、考えながら語る汐之の話に朱夏は聞き入った。
「大陸への旅は、護船団が必要なほど、危険なものなのか?」
「大きな海には、海賊というならず者たちが存在します。商船や個人の船の積荷を奪おうと、武器を構えて海上で襲ってくるのですよ」
「そのような者たちが……」
目を丸くする朱夏に、汐之は続ける。
「勿論、己で護衛を雇って旅する者もおりますがね。大陸との交易は国の名を冠した船で行うのです。その護衛を、民間の者だけで務めるのは難しい」
「そこで、湊刃の護船団か」
「ええ。国に仕える湊刃が、その私兵を組織して交易の護衛を務める。要人を護り、大陸に渡り、そして無事に帰還する」
酒を一口飲み、汐之がさらに言葉を続ける。
「無事に帰ってこられなければ意味がありませんから。湊刃の鍛錬は近衛の方々など比べ物にならないほど、厳しいものですよ」
「そうか」
「湊刃の護船団に入りたい者は、まずは泳ぎが達者でなければなりません。海賊と戦い、海に落とされても、自力で這い上がってこられなければ命を落とす」
朱夏は頷き、港から僅かの間見た海を思い浮かべた。烏が止めなければ、あのまま落ちるところだった。
「内陸で帝一族を護る近衛の方々は、泳ぎは必須ではないでしょう?」
悪戯っぽく片目を瞑られ、朱夏も笑いながら頷いた。
穏やかな空気に、ほんの一時、朱夏の心が慰められる。




