佰弐拾捌
扉を開いた瞬間、ふわりと香る花のような甘い香り。
櫻花楼の売れっ妓舎利が、独自に調合した香の香りが朱夏の全身を包んだ。
部屋の中央に立って待っていた舎利が、朱夏の姿を認めて微笑みを浮かべる。
「ようこそいらせられませ、日の御子さま」
足を踏み入れ、朱夏は苦笑とともに舎利の挨拶を受けた。
「その呼び名はどうにも擽ったいな。朱夏と呼んでくれぬか」
朱夏の言葉に、舎利は群青の瞳を丸くしてみせ口元に手を当てた。
「まあ、恐れ多い。そんな不敬な真似をしては、迦陵姐さんに叱られてしまいます」
舎利が立つ側の長椅子に促され、朱夏はゆったりと腰を下ろした。
「お隣に、失礼致します」
やわらかく声を掛けた舎利が、朱夏と並んで座りながら卓に置かれた盃に酒を注ごうとする。
「ああ、いや。酒は……」
「お嫌いでございますか?」
「嫌いというわけではないが。理性を保っていられなくなっては困る」
くすくすと笑いながら、舎利が扉側に控えていた凛慈に目を向けた。心得たというように頷き、凛慈が深く頭を下げる。
「それでは、日の御子さま。櫻花楼での夢のひとときを」
そして、立ち尽くす烏の袖を引いて部屋を出ていった。影となり護衛する烏といえども、さすがに主君の閨事まで見張っているわけにもいかない。
毒の心配は尽きないが、主君が受け入れているのに口を出すのは無粋でもあった。櫻花楼という場所と、凛慈という楼主を信用するしか、烏には手がなかった。
出ていった烏の心配が手に取るようにわかる朱夏は、苦笑しながら舎利に視線を向けた。
「私の側仕えが済まぬな」
「高貴な御方のお側仕えですもの。あのくらい、警戒心が強くなくては務まりませんよ」
「それとな」
「はい?」
酒の瓶を脇によけ、薬草茶を淹れながら舎利が首を傾げる。
「言葉遣いも、崩してくれてよいぞ」
その言葉に、舎利は驚いたように朱夏をじっと見た。
「私は、きちんと金子を払った客ではないからな。取り繕わず、素のままの其方でいてくれればよい」
「それは……ちょっと難しいですねぇ」
「何故?」
差し出された薬草茶を口に含みながら、朱夏は尋ねた。
「素の自分を曝け出しては、お客さまを満足させられませんから」
「だが、私はその方が嬉しい。……我儘だろうか」
「……敵いませんねぇ」
茶器を卓に置き、舎利はくすくすと笑いだした。
「本っ当、迦陵姐さんが命を賭けたお人だけあるよ」
「琉兎は、何故私などに命を賭けてくれたのだろうな」
「はい?」
舎利の纏う空気が冷たくなった。だが、朱夏の自嘲は止まらない。
「琉兎の命は琉兎のものだ。私は、琉兎に何もしてやれなかったというのに」
「……」
「私が関わり、想いをかけた女は、皆不幸になるのだろうか……」
琉兎然り、煌姫然り。
妙葵の側にいるであろう春香とて、どうなっているかわからない。
「……まるで疫病神だな。不誠実な私に、罰が当たったのか」
苦しげに呟く朱夏の身を、ふわりと柔らかいものが包み込んだ。
「……舎利?」
「迦陵姐さんを貶めるんなら、許しちゃおけないと思ったんだけど。なんで貴方さまが、そんなに苦しそうな顔するんです」
「……」
隣に座る舎利が、朱夏を慰めるように抱きしめていた。花の香りの装束の広い袖が、朱夏の顔を世界から隠しているようだった。
「迦陵姐さんはね、貴方さまに出会えて幸せだったんだ。この櫻花楼での暮らしを耐えられるほどに。だから、そんなこと言わないでくださいましよ」
「私が……私は、不誠実で……煌という妻がいるのに、春香で欲を発散して。それでも心のどこかで、琉兎を求めていて……」
声を震わせる朱夏の背を、舎利の細い手がそっと撫でた。
「だから、琉兎は死んでしまって……っ。煌も……私の妻も、連れ去られてしまって……!」
帝となるこの身が、遊女の腕の中で涙を流すことなどできなかった。それでも、朱夏は言葉を止めることができない。
「私に関わらなければ、こんなことにはならなかったかもしれないのに」
「……」
「日嗣宮だ、帝一族だなどと持て囃されても、私はこんなにも……無力だ」
力なく呟く朱夏の頬に、柔らかい熱が触れた。驚きに目を瞠る朱夏に、舎利が涙の溜まった瞳を向ける。
「……舎利?」
「まったく、こんな弱々しい男のどこが、迦陵姐さんはよかったのかねぇ」
「えっ?」
再び、今度は額に唇を落とされて、朱夏は戸惑った。
「けど、放っておけないねぇ。あたしだって、妓女の端くれ。通ってくるお客に心を明け渡すことなんて断じてしないんだけど」
「舎利?」
「あたしは何だって、迦陵姐さんの真似をして育ったんだ。だからこうして、売れっ妓になることだってできた。けどねぇ」
紅を引いた唇でにっと笑みの形を作って、舎利は朱夏の耳元で囁いた。
「好きになる男まで、一緒でなくったっていいだろうに。あたしも、馬鹿だねぇ」
「……舎利」
「大切な大切な奥方がいるのはわかってる。取り戻すために、困難な道に進むのも。けど」
朱夏の頬を両手で挟み、舎利は自分に青灰色の瞳を向けさせた。
「今夜だけは、あたしだけの朱夏さまでいてくれないかい」
「それは……」
「拒否の言葉は要らないよ。朱夏さまは、心と体を休める。あたしは好きな男に抱いてもらう。それだけで、いいじゃないか」
朱夏の拒絶を封じ込めるように、舎利は自ら朱夏の唇に唇を押し当てた。
大好きな人としか口づけしないのだと言った、幼い琉兎の姿が脳裏に蘇った――。




