佰弐拾陸
籠宮の帝の寝所。
眠る父帝の顔を無言で見下ろし、朱夏は溜息を堪える。
いずれ、父の跡を継ぐのだと幼い頃から覚悟を持って生きてきた。だが、それはまだまだ先のことだと思っていた。
まだ若輩の己に、果たして父の跡を継ぐことができるのか。老獪な重臣たちの人形とならぬよう、これまで以上に気を張って過ごさなくてはならない。父から教えてもらいたいことも、まだたくさんあった。
隣に煌姫が並び立ち、ともに国を治めていくのだと思っていたのに。その煌姫は今朱夏の隣にいない。
音を立てずに跪き、掛布からはみ出る父の手をそっと握った。
「……父上。私は、立派な帝となれるでしょうか……」
答えは返らない。それでも、朱夏は問わずにはいられなかった。
降って湧いた地位に浮かれる気持ちは朱夏にはない。だが、煌姫を救うために、仙螺を裁くために必要だと言われれば、断ることなどとても考えられなかった。
音もなく烏が背後から近寄ってきた。密やかに声が掛けられる。
「……親王さま」
「どうした」
こんな時でも、一人にはしてもらえない己の立場に、朱夏の口元に苦笑が浮かぶ。
「櫻花楼の楼主より、文が届きました」
ぱっと顔を上げ、朱夏は烏から書状を受け取った。
「……そうか」
「あの男は何と?」
「黄駕からは、目新しい情報は聞き出せなかったようだ」
「そうですか」
書状を元通りに畳み、朱夏は立ち上がった。
「櫻花楼へ行く」
「親王さま?」
「輝山の大臣から、帝になるように言われた」
足を踏み出しながら告げる朱夏の言葉に、烏の目が見開かれる。
「煌を取り戻すための軍を編成し、仙螺を裁くには、父上のご回復を待つよりその方が早いとの考えだろう」
「……」
扉脇に立つ武官に父帝の護衛を任せ、朱夏は寝所を出た。そのまま歩きだす朱夏に、烏が戸惑った声を掛ける。
「それで、何故櫻花楼になど行かれます?」
「私が帝になり、仙螺を政の場から離れさせるということを、黄駕にも伝えてやろうかと思ってな」
「……」
仙螺の野望は、朱夏を追い落とし冬廉を帝にすることだった。そのために必要だったはずの煌姫を何故連れ去ったのかは、まだわからないままであるが。仙螺の者たちと妙葵の目的が違ったのかどうか。
今ここに妙葵がいない以上、朱夏がどれだけ考えても答えは出てこなかった。
頭巾と布で顔を隠し、朱夏は徒歩で大通りを抜けた。後ろをついて来る烏は何も言わない。ただ、黙ってつき従うだけだ。
黄駕の顔を見に行くなどと、苦しい言い訳だと朱夏にもわかっていた。だが、あのまま籠宮で、一人寝台に横になる気にはなれなかったのだ。
帝になることも、煌姫を助けられなかったことも。
父の容態も、母の様子も。
仙螺のことも、妙葵のことも何もかも。
考えなくてはならないのに、何も考えたくなかったのだ。
家々の軒先に吊るされた火でほんのりと明るい大通りを抜け、角を曲がって裏路地へと足を踏み入れた朱夏の目に、三階建ての櫻花楼の建物が見えてきた。
薄暗がりに煌めく、提灯の明かりが目に眩しい。
入口まで進んだ朱夏は、遊郭が経営しているところを初めて目にした。
扉の両脇に格子を嵌められた小部屋が並んでおり、内の様子が見えるようになっている。着飾った遊女たちが、微笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「しんの……朱夏さま。あまりお目に入れない方が」
密やかな声にはっとして、朱夏は入口を守る男に声を掛けた。
「楼主に文を貰ってやって来たのだが、内に入るには女を買わねばならぬか?」
「えぇっと……お約束はおありですかい?」
「いや、特には」
懐から凛慈の文を取り出し、用心棒らしき男に見せてやる。
「一応、持って参ったが。今夜訪ねると返事をしたわけでもないからな。難しいならこのまま帰る」
「聞いてきますわ。お名前をお伺いしても?」
「……日の御子」
少し迷った後、朱夏はそう答えた。凛慈が烏に宛てたあの書きつけで、朱夏のことをそう表していたのを思い出したのだ。
楼内へ走ろうとした男の動きがぴたりと止まる。不審に思って覗き込んだ朱夏の目に、ゆったりと歩いてくる凛慈の姿が映った。
「これは、ようこそいらせられませ。まさか今宵おいでになられるとは思わず」
歓迎するような言葉に、用心棒の男が体をずらして朱夏を内へと入れた。
「約束もなしに済まぬ。若君の顔でも見ようかと思ってな」
「左様でございましたか。今宵はそれほど混み合っておりませんし、貴方さまならばいつでも歓迎致しますよ」
沓を脱ぎ、差し出された盥の水で足を洗って、朱夏は楼内に踏み入った。
ふわりと香が香る廊下を進みながら、先導する凛慈に尋ねる。
「通り側から、女たちを見た。ああやって、客を呼ぶのか?」
「あぁ、花格子ですか」
「花格子?」
「あそこに座っているのは、まだそれほどお客のついていない、下位の花たちです。舎利ほどの売れっ妓になれば、あそこで客引きする必要などありません」
凛慈と話していると、それまで知らなかった様々なことを知れるなと、朱夏は胸の内で思った。遊郭の常識など、知ったところで今後役に立つのかはわからないが。
「若君はね、今は地下に移っていただいていますよ」
「地下?」
「さすがにいつまでも、舎利の寝室というわけにはいきませんから」
それもそうかと頷き、凛慈に案内されるまま朱夏は琉兎の骸と再会して以来の地下へと、足を踏み入れることとなった。




