佰弐拾肆
身支度を整え、朱夏は町の入口で馬に跨った。
見送りのためについて来ていた清津が、馬上の朱夏を見上げる。
「世話になったな」
「いずれ再びお会いするかもしれませんな。まずは、先ほどお渡しした文を輝山の大臣と、湊刃のご当主へお願い致します」
その言葉に、朱夏はそっと懐を押さえた。清津から預かった文が、きちんとしまってある。
「騒がせて済まなかった。其方の下につく男たちにも、礼を伝えておいてくれるか」
返ってきた頷きに朱夏も頷き、手綱を引いて都へと向け駆け出した。往路と同じく、烏がぴたりとついて来る。
その後を輝山の兵団が続き、大港はあっという間に見えなくなっていく。
一晩眠った程度で朱夏の胸の内は落ち着きようもなかったが、新たな出会いは新鮮な驚きを齎した。
海に生きる、誇り高き湊刃の清津。宮廷で朱夏がこれまで関わってきた貴族たちとは、どこか違う飄々とした男だった。だが、凛慈のように掴みどころがないというのとも違う。
大海原を相手に生きる海の男の、こちらのすべてを見透かすような深い瞳に奇妙な安堵感を覚えたのだ。
煌姫のことがなければ。妙葵のことがなければ。出会うことすらなかったかもしれない。
朱夏は都で生き続け、清津はこの港町で生きていくのだ。煌姫が繋いでくれた縁のようで、一瞬だけ、朱夏の胸の内を温かいものが包む。
だが、すぐにきつい眼差しで前を見据え、朱夏は一心に都へと駆け続けた。
一昼夜馬を走らせ、朱夏一行が本宮の表門へたどり着いたのは翌日の夕刻であった。
息を整える間もなく、朱夏は表宮へ飛び込もうとした。その袖を、慌てたように烏が引く。
「し、親王さま。輝山の大臣にお目通りなさるなら、せめて埃と汚れを落とされませんと!」
言われ、朱夏ははた、と己の姿を見下ろした。汗と土埃で、日嗣宮とはとても言えない出で立ちだった。
苦笑を浮かべ、足だけを洗って、烏に促されるまま籠宮の湯殿へと向かう。こんな時、夏の宮が使えればと歯がみするが仕方がない。
輝山の大臣への帰還の知らせを烏に任せ、解散させた兵たちを休ませるように言いつけてから、朱夏は湯気の立つ湯殿へと足を踏み入れた。
丁寧に髪と体の汚れを落とし、檜の香る湯船へと肩まで身を沈める。ようやく、深く息を吐くことができた。
湯船の縁に頭を凭れさせ、朱夏は天井を睨んだ。船の出る大港まで行って、何もできずに戻ることになるとは思いもしなかった。
煌姫は、今どこでどうしているだろうか。不安で、恐ろしくて、泣いてはいないだろうか。
最後に会った時には、初めての月の障りで不安そうにしていた。体調は、どうであろうか。
一人でいるとよくない考えばかりが浮かび、朱夏は早々に湯殿から出ることにした。
大判の手巾でさっさと体を拭き、烏が用意していった装束に着替える。
一つ息を吐き、朱夏は脱衣室の扉を開けた。すぐ外に、烏が控えていた。
「戻っていたか」
「は。輝山の大臣は、帝の執務室にてお待ちです」
「わかった。……其方は、休んだか?」
表宮に向かう廊下を歩きながら、ついて来る烏に問いかける。朱夏がほとんど休んでいないということは、烏は不眠不休でつき従っていることになる。いくら隠密として鍛えられていても、適宜体を休ませてやりたかった。
朱夏の問いに、烏は小さく笑いを零した。
「お気遣い、ありがたく存じます。ですが、吾は親王さまのお側近くに仕えることが幸せなのです」
「そうは言ってもな」
「今夜には、きちんと寝床で休みますよ」
それ以上の追求を、朱夏は諦めた。烏には意外と頑固なところがある。朱夏を守ることにいつでも全力だが、そのために必要ならばきちんと休息を取ることだろう。
「父上のご容態については聞いたか?」
「起きたり眠ったりを繰り返しておいでのようです。まだ、思うように会話はおできにならないようですね」
「そうか」
仙螺が独自に調合した麻痺毒。盛られた直後に薬師が処置していれば、症状の出方はまだ緩やかだったかもしれないが、朱夏も身動きできない状況だった。
「待つしか、手はないか」
「はい」
頭を振って、朱夏は暗い気持ちを追い払う。
輝山の大臣に、みすみす船を出航させてしまったことを報告するのは気が重いが、今後の方針を決めなければならなかった。




