佰弐拾参
海辺の蒸し暑い夜が明けた。
到底眠れないと思った朱夏だったが、烏の持参していた眠り薬と薬草茶の力を借りて、僅かな時であったが睡眠をとることができた。
重たい頭を振りながら、貸してもらった寝台から起き上がる。
「親王さま、簡素なものしかご用意できませんでしたが」
烏が差し出す干し飯を受け取り、朱夏はじっと視線を落とした。
「……食べたくない」
「昨夜も何も召し上がっておられません。このままでは、お体を損ないます」
「無力な体など、消えてしまっても構わ……」
「親王さま!」
ぱん、と烏が両手を打ち鳴らした。思わず、朱夏の視線が上がる。
「……烏?」
「気弱になられるのも、仕方のないことです。ですが、何とか手立てを講じて、煌姫さまをお救けしようとは思われないのですか」
「……」
旅路に用いられる竹筒に入れた水を、烏はさらに差し出した。
「成る程、此度は間に合わなかったやもしれません。四季の国から連れ出されてしまわれたやもしれません」
「……」
「ですが。恐ろしい思いをされているかもしれない奥方さまを、ご夫君であられる親王さまが、死に物狂いで救出しようと、何故思われませんか!」
普段声を荒げることのない烏の大音声に、朱夏は唇を噛んだ。手元の干し飯を見やる。
「食べて、しっかり体力を回復させて。そして、都に戻り輝山の大臣と相談なさり、煌姫さまをお救けしようという気概を、どうかお持ちください」
「……」
「吾がこれまで以上に、親王さまの手足となって働きましょう。夏の宮で貴方さまを待つ隠密たちも、きっとお役に立ちます。どうか、先ほどのようなことを仰せにならないでください」
烏が泣いているのではないかと朱夏は思った。そんな顔を見せるわけはないのに。
一度きつく目を閉じ、再び開いた朱夏は強い光をその瞳に宿していた。
「其方の、言う通りだな」
小さく呟いて、朱夏は干し飯を口に運んだ。
何の味も感じられないが、それでも、再び煌姫に会うためには体を弱らせるわけにはいかなかった。
二人のやり取りを黙って見ていた清津が、ふう、と息を漏らした。その気配に、朱夏の注意が向けられる。
「……其方は?」
口の中の糧食を飲み込み、水で喉を潤した朱夏がようやく口を開いた。
「湊刃の清津と申します。この港町の管理をしている者ですよ」
「……『親父っさん』か」
朱夏の言葉に、清津はくつくつ笑ってみせた。
「高貴な御方にそんな呼ばれ方をするのは、こそばゆいですわ」
「では、清津と呼ぼう。この寝台を貸してくれたのは、其方か?礼を言う」
頭を下げた朱夏を面白そうに見やって、清津が寝台に近づいてきた。
「いやあ……都の親王さまだっていうから、どんなお人かと思ったんですが。そこの兄さんが必死に守ろうとするのも、頷けますなぁ」
ちらりと烏に顔を向け、朱夏は深く頷いた。
「私には勿体ないほどの男だ」
「しっ、親王さまっ」
質素な木の椅子に腰掛け、清津は朱夏にも椅子を勧めた。
向かい合わせに座り、朱夏はもう一度頭を下げる。
「一晩、寝床を貸してもらえて助かった」
「ま、寝床と言ってもここは仮眠所ですからな。儂は儂で、町にある家で休んだのでお気になさることはありませんよ」
「それでも、だ。大船の出航を遅らせ、捕物で騒がせ、挙句逃がしたなどと口にしたくないほどの失態だ。さらに港で働く者たちに、休む場まで貸してもらうなど」
口惜しそうな朱夏の表情に、清津が笑みを深くして頷いた。
「成る程。まだお若く、お青いようだ。ですが、若い頃の失態など、年を取ってからいくらでも挽回できるもの。先ほどそこの従者どのが言っておったように、まずは体力の回復が一番ですぞ」
「……」
「儂らは海に生きる男ですからな。何よりもまず、体が資本だ。動けなくなっちゃあ、命に関わる」
うんうん、と頷きながら清津が片目を瞑ってみせた。
「舵取り一つ、櫂漕ぎ一つ。潮目を読むにも風を読むにも、体が動かせなきゃ何もできん。そして、大海原で立ち往生なんてことになっちゃあ、そのまま大波に攫われてお終いです」
「お終い……」
「ですからね。儂ら海の男は、どれだけ辛いことがあっても、ままならないことがあっても。飯を抜いたり、夜に眠らないなんてことはしちゃいけないんですよ」
真剣に、清津の語る言葉の一つ一つを、朱夏は黙って聞いた。初めて聞く、海に生きる者の話。これまで出会ったことのない、自然を相手に生きる者の言葉だった。
「さて。説教くさい話はこの辺にして。これから都に帰りなさるかね?」
「そのつもりだ。戻って、重臣たちとこれからのことを協議せねばならない」
「これからのこと?」
首を傾げた清津に、朱夏は唾を飲み込んで言葉を続ける。
「外国へ、船を出す準備をせねばならない」
「……」
「恥を忍んで打ち明けるのだが。……昨日出航を許してしまった亜伊夜の国の船には、私の元から攫われた妻が乗っていたかもしれない」
「っ、親王さまっ」
止めようとする烏を手で制し、朱夏は清津から目を逸らさなかった。
「妻を奪われた腰抜けのまま、帝の跡を継ぐわけにもいかぬ。追跡は困難を極めようが、必ず取り戻さねば」
きっぱり言い切った朱夏の青灰色の瞳を、清津はその琥珀色の瞳でじっと見据えていた。




