佰弐拾弐
それほど大きくない簡素な寝台に朱夏の身を横たえ、烏は大きく息を吐いた。
主君を気絶させるなど、側近の護衛としては失態だ。だが、あのまま意識を保っていては、朱夏の精神が壊れる予感がした。この港町に到着するまで、朱夏はほとんど休めていない。これまでは気力で何とかなっていたが、煌姫の救出に間に合わなかった今となっては、些細なきっかけでも崩壊するかもしれない。
そっと薄手の掛布を掛けてやり、烏は後ろを振り返った。
水差しから杯に水を注ぎ、湊刃の親父っさんが喉を潤しているところだった。
「あんたも、一杯やるかね?」
烏の視線に気づき、杯をこちらに差し出そうとした手を制し、烏は首を振った。
「場を貸していただき、感謝する。主が目覚めたなら、話を聞きたい」
「ふむ。日嗣宮さまはよい従者をお持ちのようだ」
琥珀色の目を細めた男は、杯を質素な卓に置きじっと烏を見つめた。
「儂は、湊刃の清津。ご当主からこの港を任されておる」
「……吾は烏。日嗣宮さまの一の矛だ」
木でできた椅子に腰を下ろし、清津は寝台の上の朱夏に目をやった。
「詳しい事情はわからんが、大船の出航を止めたのは日嗣宮さまのためか?」
「……」
「どうも、罪人を捜索に来られたようだが。高貴な日嗣宮さま御自らやって来るような相手だったのか?」
何をどこまで答えていいのか、烏は躊躇った。すでに煌姫の不在は重臣たちには知られつつある。仙螺の謀反とも言える企みのことも、そろそろこの港町まで届くかもしれない。
それでも、烏の口から語るのは躊躇われた。
難しい顔になった烏を見上げ、清津は苦笑を漏らした。
「何も国家の機密を話せというわけではないんだが。まあ、いい。ひとまずあんたも体を休めるといい」
「……かたじけない」
「お供してきた兵たちは、この町の男たちの休息所に案内させた。大陸渡りの大船は、間もなく出航する」
勧められた椅子にも座らず、烏は寝台に近寄り、眠る朱夏の顔を見下ろし続けた。時折、眉を寄せて苦しそうな呼吸になる。悪い夢を見ていないといいのだが。
「そう言えば、亜伊夜の国の船を追おうとしていたな」
ぽつりと零された言葉に烏は振り向く。
「先ほど出航した船か?」
「左様。この国とはあまり交流のない国だから、港に留まっている間も船から人はあまり下りてこなかったが」
懐から取り出した手巾で朱夏の額の汗を拭ってやり、烏は尋ねた。
「あの船は、どのくらいこの港に逗留していたんだ?」
「およそ一月」
「一月……」
一月前と言えば、夏勢帝在位二十年の式典の準備に朱夏が走り回っていた頃だ。
「都の文官は、あの船に出入りしていたか?」
「文官か……いや、見ていないな。都の人間はこの町では目立つ。儂が見ておらんでも、誰かの目には入っただろう。そんな報告はなかった」
「……そうか」
溜息を吐いた烏を横目に、清津はもう一杯水を飲み干した。
「さて。儂は大船の出航を見送らんとならん。この場には誰も近寄らんように言いつけておくから、ゆっくりと休ませて差し上げるとよい」
「ありがたく」
短く答えた烏に一つ頷いて、海の男は建物を出ていった。
寝台の脇に椅子を移動させ、烏は浅く腰掛けた。身動ぐ朱夏をじっと見つめる。
「親王さま……どうぞ、お心を確かに」
汗を拭いてやり、袂にしまい込んでいた扇を開いて朱夏の顔に風を送る。
烏が持つ扇は、どちらかといえば武器として使うもので、骨に鉄が仕込んであった。涼むためのものではないが、少しでも朱夏の寝苦しさを取り除いてやりたい。
「……煌姫さまも、どうかご無事で……」
祈るような呟きに、僅かに朱夏が身動いだ。
はっとして顔を上げた烏の前で、朱夏の身が小刻みに震え始める。思わず手を取り、強く握りしめた。
「親王さまっ?」
「……ぅ……てる……て、る」
細く漏らされた声に、烏の眉根が寄った。相当よくない夢でも見ているのか、朱夏の額から止まることなく汗が噴き出す。
意を決して、烏は朱夏の肩に手を置きそっと揺すった。このまま眠らせるよりも、起こしてしまった方がよさそうだ。気絶させたのは己だというのに、身勝手なことだと自嘲しながら。
「親王さま。聞こえますか、朱夏さまっ」
「……ぁ、うぅ……」
「朱夏さまっ!」
幾度目かの問いかけに、うっすらと朱夏の瞳が開かれた。虚ろに視線を彷徨わせ、己を揺らす烏の顔で目が止まった。
「……から、す?」
「はい、吾です。親王さま、ご気分は……」
「っ!」
がばり、と身を起こそうとして、朱夏はふらついて寝台に倒れ込んだ。
「親王さまっ」
「何故っ!どうして止めたっ!」
「親王さま……」
眉を下げた烏に、朱夏は抑えきれない怒りをぶつける。
「みすみすっ、船を行かせるなどっ」
「……」
「こんな……私は、何と無様な……」
両手で顔を覆い、朱夏は歯がみする。亜伊夜の国の船だと言われたのに、あのまま出航させてしまった。あの船に煌姫が乗っていたのなら、泳げなくとも海に飛び込んで追いかけるべきだったのだ。
だが、烏の静かな声が朱夏を引き戻した。
「そうして、溺れて儚くなるおつもりだったのですか」
「……っ」
「煌姫さまを取り戻す算段もつけようとせず、貴方さまを信じて待っておられる輝山の大臣に、その亡骸を抱かせるおつもりですか」
厳しい指摘に朱夏は顔の上で拳を握る。烏の言うことが正しいとわかっている。だが、妻を攫われ、国からも逃がしてしまった朱夏に、できることなど何もないと思えた。
「一晩お体を休め、都に戻って輝山の大臣にご相談なさるべきです」
烏はいつも正しい。朱夏に道を踏み外させないように、誤った道を行かせないように、いつも正しく朱夏を導こうとする。
だが、心に空洞ができてしまったような今の朱夏に、それは酷く苦い言葉だった――。




