佰弐拾壱
大船から全速力で駆け下りた朱夏は、烏が止めるのも聞こえずに小窓から見えた小型の帆船へと駆けた。
すでに板は上げられ、漕ぎ手たちが櫂穴から櫂を出して水面に差し入れたのが、走る朱夏にも見える。
帆がすべて張られ、風を受けて船が揺れていた。
海中から錨が引き上げられた。
船体が動く。水面を漕ぐ櫂の動きによって、船首が大海原に向けられる。
そのすべてが、やけにゆっくりとした動きのように、朱夏には見えた。焦る朱夏に対し、何にも動じずにゆったりと船を出そうとしている。何故かそう感じられる。
船の昇降口に、ちらりと見えた人影は、黒髪ではなかったか。
ぶぉぉーっ、と船の出航を示す法螺貝が鳴らされた。ゆっくりゆっくりと、小型の船が動き出す。
「……っ、ま、待て……っ」
息を切らし、ようやくたどり着いた朱夏の目の前で、亜伊夜の国所有だという船が出ていく。
震える腕を伸ばし、砂利に足を取られて無様に躓きながら、朱夏は必死に叫んだ。
「ま、待て……待ってくれ……っ」
「親王さまっ!」
ぐいっ、と後ろから強く抱き込まれた。あと一歩踏み出せば、朱夏は水面にその身を落としていただろう。死に物狂いで追いついた烏が、海に落ちそうな朱夏を抱き留めたのだった。
「っ、離せっ」
「なりません、親王さまっ。泳げないでしょうっ?」
「……っ、船が……煌っ!」
腕の中で暴れる朱夏に、烏もどんな言葉を掛けていいのかわからなかった。
出航した船に、煌姫と妙葵が乗っていたのかももうわからない。確かめる術など、朱夏にも烏にもなかった。
「煌……っ!」
「……ご無礼を」
もがきながら、それでも船に手を伸ばそうとする朱夏の首に、溜息を吐いて烏は手刀を入れた。
ぐらり、と朱夏の体が傾く。地に倒れないようにその身を支え、烏は周囲を見回す。
取り乱す朱夏と押さえる烏を遠巻きに見ている中から、船乗りらしき体格のいい男を見つけて声を掛けた。
「そこの者っ。済まんが手を貸してほしい。この港を統べる湊刃の者に、この方を休ませる場を貸していただけるよう、伝えてもらえないか!」
「……えっ?えっ!あたしですかいっ?」
きょろきょろと周囲に視線を走らせた後、素っ頓狂な声を上げた男が躊躇いがちに歩み寄ってきた。
朱夏の顔を隠すように腕の中で囲い、烏は頷く。
「親父っさんとあんたらが呼んでたお人がいるだろう?話をつけてきてほしい」
「はあ……まあ、いいですけど」
「構わんぞ。儂の仮眠所を貸して差し上げよう」
踵を返しかけた男の後ろから、深い声がその場に響いた。
「あっ、親父っさん!」
近づいてきたのは、小柄な初老の男であった。後退した額をつるりと片手で撫で、琥珀色の瞳を細めている。目尻に浮かぶ皺と、よく日に焼けた肌が、海に生きる男といった風情を醸し出していた。
「あんた……湊刃のお人か?」
険しい表情のまま初老の男を見据える烏に、人好きのする笑みを浮かべた男が頷く。
「そちらは日嗣宮さまの側付きだな?挨拶は後だ。高貴な御身に、港の陽射しは厳しかろう」
「……」
男の言う通りであった。一瞬躊躇った後、烏は朱夏の体を大切に抱えて立ち上がる。
大船から、不首尾であった捜索を終えた輝山の兵たちが下りてくるところだった。そちらにもちらりと視線を投げ、親父っさんと呼ばれているらしい男が口を開いた。
「あちらのお人らは、船乗りたちの休息所で待ってもらえばいいか?」
「……恩に着る」
輝山の兵は妙葵の捜索のための手勢ではあったが、都を遠く離れた朱夏の護衛でもある。あまり離れた場所に待機させるわけにもいかない。
「では、こちらへ。それと、大船はもう出航させてもよいのか?すでに三日待たせているお客が、そろそろ騒ぎ出す」
「……」
その答えを、烏は持ち合わせていなかった。
だが、輝山の兵が隅々まで捜索して何も出てこなかったのなら、これ以上大船を留まらせる理由もない。
「吾には決められん」
「……そうか。なら、お叱りは後で儂が受けよう。この船出にすべてを賭けている者もおるでな」
先ほどの船乗りに何事か指示を出し、初老の男はゆったりと船着き場の入口に向けて歩きだした。
簡素な建物が見えている。恐らく彼の言っていた仮眠所であろう。
警戒を解かないまま、烏は男の後を追って歩きだした。




