佰弐拾
四方を海に囲まれた四季の国。
外国と交易を行うために欠かせないのは、船での大陸との行き来である。
直接交流のない国々へも、大陸へと船で渡った後で旅して行くことができる。大陸とは反対側に位置する小島の国々へは、他の小さな港からも船が出ている。だが、大陸に渡って大きな商いをしたい者や、広大な外国を見たい者はこの大港で船に乗る。
四季の国を出航して大陸に到着するまで、おおよそ二月。
その航海を無事に終えるため、大陸渡りの船は国一番の大船であった。所有しているのは、水運を引き受ける重臣を輩出する名家、湊刃家である。
船に乗るための板を船着き場から渡しながら、駆けてくる朱夏に目を向けたのは、湊刃から派遣されている船乗りであった。
息を切らして立ち止まった朱夏に、怪訝な目を向けている。
「一体、どちらさまで?」
呼吸を整え、朱夏は背を伸ばして書状を広げてみせた。
「日嗣宮の名において、大陸行きの船を検める。宮廷に仕える文官妙葵と、その妻春香、そして高貴な女人の捜索である。速やかに、協力するように」
朱夏の言葉に、船着き場の入口にいた男と同じように日に焼けた船乗りが、細い目を精一杯見開いた。
「穏やかじゃねぇですな。この船に、そんな大層なお人が乗ってるってんですかい?」
「其方は、ここで船に乗る者を検めているのではないのか?」
「そりゃまあ、そうですけどね」
船に乗る順番を待っていた者たちに、朱夏は済まなさそうな表情を向けた。
「其方らにも、詫びておく。捕物が終わるまで、船は出ぬと思っていてくれ」
ざわざわと、その場で列をなしていた者たちが囁き合い始めた。
「なぁ、日嗣宮さまって言ってなかったか?」
「この船に乗るために、遠くから来たんだ。ただでさえ遅れてるってのに、これ以上は……」
「けど、お偉い人に逆らったら罰せられるんじゃないのか」
そのざわめきに敢えて聞こえない振りをし、朱夏は船乗りに目を向ける。
「これが書状だ。政を司る輝山の大臣の署名もある。こちらも時がない。入らせてもらうぞ」
じっと書状を睨んでいた男は、諦めたように息を吐いた。
「ここに並んでるお客たちに障りがないんなら、構わねぇですよ。ただ、今船に乗り込んでるお客の中に、そんな高貴そうなお人は見かけなかったですけどねぇ」
その言葉に、朱夏の胸の内を不安が襲った。ここまで必死に駆けてきたが、妙葵がこの船にいなければもう打つ手がない。
ぐっと奥歯を噛みしめ、拳を握ったままで朱夏は生まれて初めての船に乗り込んだ。
ぐらぐらと、揺れる足元が覚束ない。
まるで雲の上でも歩いているような心地で、朱夏は船内を進む。烏は朱夏の背後にぴたりとつき、輝山の兵たちが船室を下から順に捜索し始めた。
船乗りの一人が案内を買って出たため、朱夏はその先導で上の客室へと足を踏み入れた。
「ここが、お偉いさんやらお大尽やらが使う船室ですわ。今回は、ここの予約は特に入ってなかったんですがねぇ」
一番広いと言われるその部屋は、船の中とは思えないほど贅沢な造りをしていた。三間続きの客室に、居室と寝室、汗を流す湯殿のような部屋が設置されている。
「えぇっと、日嗣宮さまでしたか。貴方さまがもし船で大陸に渡られるなら、間違いなくこの部屋に通されるでしょうなぁ」
「文官の、妙葵という名で予約はなかったのだな?」
室内を調べている烏の姿を視界に収めながら、朱夏は尋ねた。
「そうですなぁ。お客の名簿は親父っさんが管理してるけど、今回お偉いさんは乗らないって聞いてましたねぇ」
「黒い髪で灰色の瞳をした、背の高いひょろりとした男なのだが、見た覚えはないか?」
朱夏の問いに、大柄な船乗りはぽりぽりと頭を掻く。
「いやあ。これでもお客の顔を覚えるのは得意な方なんですがね。お尋ねのような特徴の男は、ここ最近じゃあ見てないっつうか」
「そう、か……」
唇を噛み、朱夏は焦燥感に駆られて船室に取りつけられた小窓から外を見た。
揺れる水面と、遥かな空が広がっていた。平時ならば、穏やかな心地で水平線の彼方を見つめていられただろうに。
ふと、朱夏の目がそれほど大きくない船に帆が張られるのを捉えた。
「……あれは?」
朱夏の呟きに、烏の動きを見守っていた船乗りが近寄ってきた。
「どうしましたい?」
「あれだ。あの船は出航するのか?」
体を小窓からずらし、近づいた男に外が見えるようにしてやる。
じっと目を眇めて船を見ていた男が、ああ、と頷いた。
「ありゃあ、個人所有の船ですな。この大船みたいに大陸まで直接行くんじゃなく、途中途中で小島に寄りながら外国を目指す、趣味で旅するような人間が乗る船ですわ」
「あの船が、どこの所有かわかるか?」
朱夏の背筋を冷たいものが伝う。どうしようもない不安感に胸が塗りつぶされそうだ。
「……いやあ。あれは、この国の船じゃなく、外国から来た船が帰るためのもんですわ」
「外国から、来た……?」
朱夏の声が震える。今、この時に、何故あの船が目に留まったのか。
「えぇっと、どこの所有か、でしたな。あの帆に描いてあるのは……ああ、亜伊夜の国というところから来た船ですな」
「っ!!」
船乗りの言葉が終わると同時に、朱夏は駆け出した。慌てたように、烏が追ってくる。
亜伊夜の国。
悍ましい風習が残るという、妙葵が通じていたらしい国交のない外国。
何故、ここに今、その船があるのか。今にも出航しようとしているあの船を、何としても止めなければ。
噴き出した汗が頬を流れるのにも構わず、朱夏は大船の内を全力で走った。




