佰拾弐
輝山出身の文官、妙葵の屋敷は都の外れにほど近い場所に建っていた。
民家に囲まれた静かな区域で、それほど大きくない構えの屋敷は静まり返っていた。
馬を飛ばしてここまで駆け続けた朱夏一行は、建物の陰に身を寄せて気配を消す。屋敷の様子を観察していた烏が、後ろに庇う朱夏に視線を向けた。
「人の気配が感じられませんが……ただ、無人とも言い切れません」
「こうしていても仕方がない。屋敷への立ち入りの書状はあるのだ。踏み込む」
煌姫の安否を確かめたい。今の朱夏の頭には、それしかなかった。
朱夏の後ろに控えていた凛慈が、そっと進み出た。
「凛慈?」
「まずは、我が楼の者を行かせましょうか?商人が貴族の屋敷を訪ねるのは、不自然ではないと思われますが」
日嗣宮の名で立ち入れば、周囲の家々への影響も大きくなるだろう。その果てに煌姫を無事保護できればよいが、ここが外れだった場合には不当な捜査と指摘を受ける。
「そう……だな。まずは警戒なく扉を開かせたい。凛慈、頼めるか?」
潔く頭を上げる朱夏に、凛慈は微笑んで頷いた。
「では。私が自ら参りましょう」
「楼主が己で?」
驚きに目を見開く朱夏に、凛慈は悪戯っぽく笑ってみせた。
「貴方さまに賭けると、申し上げましたでしょう?後ろで高みの見物など、実は性に合いません」
くすくす笑いながら、凛慈は護衛らしき男を二人連れて足を踏み出した。
ぴったりと閉じられた扉を、大柄な男が控えめに叩いた。凛慈はじっと中からの反応を待つ。
しばらく経ってから、再び扉を叩くと微かに応えが返ってきた。
「……どちらさまでございましょう」
屋敷に仕える使用人かと当たりをつけて、凛慈はよく通る声で名乗った。
「都にて櫻花楼を構えます、凛慈と申します。近頃人気の商品を、宮中でお働きの貴族の皆様にご紹介しております。よろしければ、こちらのお宅でもいかがですか」
「……」
「お約束はしておりませんから、主さまがご不快に思われるようでしたなら、すぐに立ち去ります。ですが、本当によいお品なのです。せめて一目、お目にかかってお話させていただくことはできませんか」
きい、と小さな音を立てて扉が細く開かれた。暗がりから、目元だけが覗いている。
「……証を」
か細い声に頷き、凛慈は懐から己の身分を示す手形を取り出した。都で店を経営する許可を、国が認めたものである。勿論、遊郭のことではない。
「さ、お検めください」
相手を安心させるような、人好きのする笑みを浮かべて凛慈は手形を差し出した。
じっ、と手形を見ていた使用人が、ゆっくりと扉を開いた。そのことに、凛慈は驚く。まずは、屋敷の主人に許可を取りに奥へ引っ込むものと思っていたのだ。
「主は、お方さまとともにお留守なのです。ですから、本日はそのお品を買いつけることはできません」
姿を現したのは、枯れ枝のように細い体をした老婆だった。
「何か、目録のようなものがあれば、お預かり致しますよ」
「これは、間の悪い時にお訪ねしまして、申し訳ないですね。どちらへお出ましで?」
ゆったりとした動きで、商品の目録を取り出しているような振りをしながら、凛慈が尋ねる。視界の端で、朱夏がひっそりと近づいてきているのを、老婆に見えないように体をずらして隠す。
「わたしどもにはよくわかりませんが。何やら、外国との交易が上手くいったらしく、上機嫌でお出かけになりましたよ」
「それはお羨ましい。私も商人の端くれ。外国との商いほど、気を遣うものはありませんからね」
にこにこと笑顔のまま頷く凛慈の後ろから、朱夏がそっと声を掛けた。
「済まぬ。聞くとはなしに聞こえてしまったのだが。この屋敷の主人は、不在ということだろうか」
朱夏の登場に、老婆が白濁した目をいっぱいに見開いた。見るからに高貴な若君。途端に狼狽しだした老婆に、朱夏は宥めるような声を掛ける。
「驚かせて済まぬな。其方は、この屋敷に勤めて長いのか?」
「あ……えぇっと。そうですねぇ。若さまがお生まれの時からおりますよ」
「そうか。私はその若さまに用があって来たのだが……いつ頃戻るかわかるであろうか」
朱夏の問いに、老婆が首を傾げる。
「さあ、そこまでは。お方さまがご一緒ですから、それほど遅くはないと思うのですが」
「では、内で待たせてもらってもいいだろうか」
「えっ。それは、困りますねぇ」
眉を下げた老婆に、朱夏は溜息を吐いて懐から書状を取り出した。
「其方、字は読めるか?これは、この屋敷への立ち入りを通達する書状なのだが」
老婆の目の前に書状を広げてみせた朱夏だったが、困ったような老婆の様子に首を傾げる。
「先ほど、櫻花楼の楼主の手形はよく見ていたようだったが」
「あれは、御璽、というんでしたか?それが押してありましたから」
老婆の言葉に朱夏は頷く。帝から民への触れ書きを立てる際に、帝の印章を押すことはよくあることだった。この老婆は、その形を覚えていただけなのだろう。
「では、読み上げる。
日嗣宮の名において、輝山の妙葵の屋敷への立ち入り捜査を行う。掛けられている嫌疑は、日嗣宮の正室の拐かしと、輝山の大臣の署名偽造だ。
だが、どれも疑わしいという段階であり、こちらの動きに素直に従っていれば屋敷の者に危害は加えぬ」
老婆の目が丸くなった。徐々に、その顔色が青白くなっていく。目の前に立つのが、帝の世継ぎであると理解したのだろう。
慌ててその場で額づく老婆を、追いついた烏が立たせる。
「我らの邪魔をしないのならば、其方が何か罪に問われることはない。素直に、屋敷内に入れるように」
震えだした老婆が、うろうろと視線を彷徨わせた後で、諦めたように肩を落とした。彼女の身分で、帝一族に抗うことなど、そもそもできはしない。
唇を引き結び、朱夏は妙葵の屋敷に足を踏み入れた。




