佰拾壱
表宮の執務室へと駆け戻った朱夏は、輝山の大臣から妙葵の屋敷へ踏み込むための正式な書状を受け取った。
息を切らしそのまま出ていこうとする孫に、驚いた様子だった大臣は眉を下げて水を勧めた。
「いや、そのような暇は……」
「いったん、落ち着かれませ。冷静でいなければ、取り返しのつかない何事かが起きてしまいますぞ」
「……」
己の何倍も生きている祖父の言葉に、朱夏は素直に従った。受け取った杯を、一息に空ける。
ふ、と息を吐き、輝山の大臣を見つめ返した。
「済まぬ。落ち着いた」
「よろしゅうございました。仙螺の大臣はいかがでしたかな」
「あれは……本当に企み事などできぬ男だな」
水の入っていた杯を卓に戻し、朱夏は溜息を零した。
「あの御方は、元々嫡男ではございませんでしたからな」
「そうなのか?」
「先代の、末息子だったのですよ。四男であられましたか。兄を皆疫病で相次いで亡くし、降って湧いた当主の座に適応できなかったのでしょう」
気弱そうな仙螺の大臣の青い顔を思い出した。
「今の嫡男や第二室どのとは、随分気質が違うのだな」
「四季の国が興った初めの頃に、秘薬と毒酒で成り上がった家ですからな。ご嫡男や第二室さまは、そういった野心の強いご性質が顕著に出たのでしょう」
祖父の言葉に頷き、朱夏は踵を返した。
「仙螺への裁きは、ひとまず父上のご回復を待つ。どうしても難しいようなら、私が日嗣宮の名の下に裁く」
「はい。すでに仙螺の屋敷へは、文官たちを向かわせております。謀に与していた者たちを、引っ立ててくるでしょう」
「そちらは任せる」
執務室から駆け出した朱夏の後を、烏が追いかけた。
輝山から借り受けた兵を連れ、本宮を出たところで朱夏の足が止まる。
宮廷を守る門の脇に、見知った姿を見つけたからだ。朱夏に気づき、朱色の袍を纏った男が慇懃に頭を下げた。
「ご機嫌麗しゅう、日嗣宮さま」
「凛慈。どうした」
凛慈の顔を知らない兵たちが警戒して身構えたが、朱夏はそれを手で制した。
「いえ。どうも、お耳に入れた方がよさそうな話を聞きまして」
「……若君からか?」
櫻花楼で、女たちに囚われている黄駕の名を、今この場で出すことはできなかった。だが、凛慈にはすぐに察せられたようだ。小さく頷き朱夏に一歩近づいた。
「途切れ途切れの言葉ではありましたが。『とつくに、めいやく』と」
囁かれた一言に朱夏の顔が曇った。
「何か、秘密の約束事を外国と交わしていたのか……?」
「わかりかねます。ですが、あちらのお家は外交を担当されていましたね?まだ何か恐ろしい企み事があってはと、お知らせに参りました」
朱夏は小さく頷き、凛慈の顔を見上げた。
「わざわざ、済まぬ。これから、私は妻を奪還に行くところだ。其方は店に戻るのか?」
「そのつもりでしたが……」
言い淀む凛慈に首を傾げ、朱夏は続きを待った。
「私も、お供してよろしいですか?」
その言葉に、朱夏よりも先に烏が反応した。
「何故だ?」
険しい表情の烏に構わず、凛慈が微笑んだ。
「貴方さまに、ご助力したいのですよ。高貴な姫君を奪還されるというのなら、手は多い方がよろしいでしょう?」
体をずらした凛慈の後ろに、屈強な男たちが立っていた。輝山の兵が殺気立つ。
「……彼らは?」
「店と私の護衛をしている者たちです。近衛の方々のようにお綺麗な武術は嗜んでおりませんが、荒事には慣れた連中です」
「店の護衛は、平気なのか」
気遣わしげな朱夏の言葉に、凛慈は笑みを深くした。
「勿論、店の守りは残してございますよ。貴方さまがこれから向かわれる先で、思わぬ抵抗に合われた際の、盾にでもお使いいただければ、と」
「……」
逡巡したのは一瞬だった。ここで、押し問答をしている時が惜しい。
朱夏は凛慈に頷いてみせた。
「かたじけなく、其方の助力を受けよう」
「親王さまっ」
「私は、まだ其方に何も返せていないからな。其方からの申し出を断る理由がない」
きっぱりと言い切った朱夏に、凛慈は微笑みを、烏は苦い表情をそれぞれ見せた。
輝山の兵たちに、朱夏が言い渡す。
「彼らは、私を守るために駆けつけてくれたのだ。身分が違うからと、傲慢に振る舞うことは私が許さない」
しばらくお互いの顔を見つめ合っていた兵たちは、朱夏の次の言葉で頭を垂れた。
「日嗣宮として、民の助力を撥ねつけることはしない。私は、其方たちのことも彼らのことも、等しく我が民だと思う。いがみ合いは、不幸な連鎖しか生まぬ。其方たちが、そのように愚かだとは思わぬ」
そして、朱夏は走り出した。
これ以上、煌姫の安否がわからないままの状態など、耐えられそうになかった。




