佰玖
表宮を抜けた先にある、帝の私的空間が広がる籠宮。
朱夏が足を踏み入れるのは久しぶりのことだった。最奥の帝の寝所へ、烏だけを連れて朱夏は入った。
大きな寝台の周りを宮廷の薬師たちが立ち動き、帝の回復に努めている。
「父上のご様子は、どうか」
声を掛けた朱夏に頭を下げ、筆頭薬師が難しい顔で口を開いた。
「時折、意識が浮上なさる時がございます。お体の半分が、思うように動かせないご様子です」
「麻痺毒やも、と言っていたな?ご回復の目処は立つか」
首を傾げ、薬師は寝台の帝に目を向ける。
「ご自身で歩けるようには、なれないかもしれませぬ。目を覚まされる時が長くなれば、徐々に薬湯と煎じ薬でお身の内の毒を洗い流していけるでしょう」
「……そうか」
引き続き父の世話を任せ、朱夏が踵を返しかけた時、寝台脇で帝の汗を拭いていた侍女が小さく叫んだ。
「うっ、今上さまがっ」
はっと顔を上げて、朱夏は父に駆け寄った。
「父上っ?」
「……」
うっすらと目を開け、僅かに唇を震わせた夏勢帝の手を、朱夏は思わず握り込んだ。力を入れすぎたのか、父の顔が微かに歪んで慌てて手を離す。
「父上、朱夏ですっ。おわかりになりますか」
「……、しゅ……」
「はい、朱夏です!」
朱夏の背後で、薬師たちが慌ただしく動き始める。薬湯をっ、という密かな声も聞こえた。
再び父の手を優しく握り、朱夏は声を掛け続ける。
「今、薬湯を運ばせます。お飲みになれますか」
「……ちん、は……こ、こは……」
父の手の甲をさすり、朱夏は宥めるように言葉を紡いだ。
「籠宮のご寝所です」
「……かりょ……れん……」
眉間に皺を寄せ、朱夏は周囲に気を配った。誰もが帝への薬の支度に走り回っており、こちらの会話を聞こうとする者は見られない。
朱夏は父の耳元に口を寄せ、そっと囁いた。
「第六室どのも第二室どのも、ここにはおりません。今は、ご回復を最優先となさってください。政は、輝山の大臣と力を合わせ、私が代行致します」
嘘は吐けず、真実も言えずに朱夏は思い悩む。だが、ようやく意識の戻った父に、寵愛していた第六室がすでにこの世を去ったとは、とても言えなかった。
後ろからそっと声が掛けられた。
「日嗣宮さま。今上帝さまに、薬湯をお飲ませ致しますので、場をお空けください」
筆頭薬師の声に、朱夏は父の手からそっと手を離した。静かに立ち上がり、一歩横にずれる。
「今上さま、こちらは毒を抜くための薬を溶かし込んだ薬湯でございます。まずは、唇を湿らせますこと、お許しくださいませ」
薬師が指の先をそっと薬湯に浸け、帝の乾燥した唇をほんのりと湿らせた。苦みを感じたのか、夏勢帝の眉が微かに寄る。
「次は、少し増やしますぞ。さ、舐め取ってくださいませ」
湿らせる指を一本増やし、筆頭薬師がさらに帝の唇を濡らしていく。その様子を、朱夏は何もできずにじっと見ていた。
「……ぐ……ぅ、っ」
「今上さま、舌を動かせますか。私の指から、薬を舐めてみてくださいませ」
「……ぁ、う……」
「そう。お上手でございます。薬の苦みは感じますか」
ゆっくり、ゆっくりと、夏勢帝の体内に薬湯が染み込んでいくようだ。
体の横で拳を握り込んだまま、朱夏は父の回復を願った。
椀一杯分の薬湯を、長い時間をかけて飲み込んだ夏勢帝は、再び眠りについた。
先ほどまでよりも、幾分呼吸が穏やかになったように感じられて朱夏は安堵した。椀を片づける筆頭薬師に声を掛ける。
「ご容態は、落ち着きそうか?」
「薬湯の苦みを感じてはおいでのようでした。舌に麻痺が残るかどうかは、まだわかりかねます」
父の寝顔を見下ろし、朱夏はこれからについて思いを馳せる。帝の回復がまだ先ならば、日嗣宮の名で仙螺を裁く用意をしなければならない。その前に、煌姫を奪い返さねば。
眉間に皺を寄せる朱夏に、薬師が不安そうに尋ねた。
「今上帝さまのご回復は、お体の様子に合わせて徐々に、としか申し上げられませんが。日嗣宮さまには、それではご不快でしょうか」
はっとして、朱夏は薬師に目を向けた。心身を砕いてくれている筆頭薬師の目の下には、濃い隈が浮かんでいる。父の回復の助けとなるこの男に、無理をさせるわけにはいかなかった。
「済まぬ、そうではない。其方らはよくやってくれている。時を待たねばならぬことも、わかってはいるのだが……」
腕を組んで、朱夏は考え込む。仙螺を裁くための署名を、今の父からはもらえないということだ。輝山の大臣の署名だけでは、弱いだろうか。貴人の捕縛自体は可能だが、第二室を罪に問えるだろうか。
「父上の……指先に朱墨をつけて、押していただくか」
「は……?」
「ああ、いや。こちらの話だ。其方は引き続き、父上の治療を頼む」
あとは、輝山の大臣と話し合うべきことだった。
寝台の父にちらりと視線を投げてから、朱夏は籠宮を後にした。
貴人牢で、仙螺の大臣から妙葵についての話を聞かねばならない。蓮黄の様子については、奥宮の薬師から報告をさせることになっていた。
考えることが多すぎて鈍く痛む頭を抱え、朱夏は足を踏み出した。




