玖
昇った朝日が照らす、夏の宮。
涼やかな青に彩られた寝台で、朱夏は身動ぎした。微かな物音が遠くに聞こえる。侍女たちが、朝の支度に動き回る音だろう。
ゆっくりと身を起こし、天蓋から垂らされた薄布をめくる。今日は従妹姫のご機嫌伺いの予定が立てられていた。一つ息を吐いて寝台から下りる。
裸足の足裏にひんやりとした感触が心地よい。寝着を脱ぎ、寝台の上に放った。脇の台にきちんと畳んで置かれていた装束に袖を通す。薄い水色の袴に、濃紺の衣を身に着けると気持ちが引き締まる。
屋内用の沓を履いて寝室を出た。朝の身支度は手早く済ませるようにしている。父帝の治世は平和ではあるが、帝一族として有事の際にはすぐに動けるようにしなくてはならない。
扉を開けたところに烏が控えていた。朝日で輝く宮の内で、烏の黒い出で立ちは目立つ。
「戻っていたのか」
朱夏に声を掛けられ、烏は一つ頷きを返した。
「おはようございます、親王さま」
「ああ、おはよう」
「昨夜は、よくお休みになれましたか」
夏の宮の入口へと歩き始めた朱夏の後ろを、烏がぴたりとついてくる。
「うん。夢も見なかった」
「ようございました」
「今日は従妹どののところへ行くから、朝の手習いはなしだ」
宮の入口で沓を履き替え、朱夏は外へ出た。建物の周りを沿うように、裏手へと向かっていく。
朱夏が脱いだ沓は、烏が懐にしまい込んだ。
夏の宮の裏に小さな林があり、その奥に泉が湧き出ている。禁域とされ、帝一族の人間以外の立ち入りは禁じられていた。
朝餉の前に、この泉で身を清めるのが朱夏の日課であった。
林の入口に烏を待たせ、朱夏は一人、泉へと進む。小鳥の囀りを心地よく聴きながら、慣れた道を歩いていると、じきに泉にたどり着くというところで物音が聞こえた。
「……?」
誰もいないはずである。だが、確かに何かの音がする。これは、水音か――?
心臓が早鐘を打つ。これまでこの林で、他者に会ったことはなかった。何の武器も持たず、たった一人で歩いてきてしまった。
こくり、と唾を飲み込み、朱夏は細い木の陰に隠れるようにして泉を窺った。
初めに目に飛び込んできたのは、真っ白な背中だった。小さく細い、触れれば折れてしまいそうな背中。
腰まで泉に浸かり、その華奢な体に手で掬った水をかけている。
丁寧に洗ったのか、絡まっていた薄茶の髪を綺麗に頭の上で纏めてある。その毛先から滴る水滴が、白い肌にぽたりと落ちた。
はっとして、朱夏は目を逸らした。
琉兎が、水浴びをしている――。
禁域に足を踏み入れたことを咎めるべきなのに、その場を動けなかった。
どくどくと、うるさく鳴り響く己の鼓動に眩暈がしそうだった。
どれくらいそうしていたのか。ふと気づくと琉兎が泉から上がっていた。
昨夜渡した麻の単に身を包み、大判の手巾で髪を拭いている。その瞳が、じっとこちらを見ていた。
「あ……」
「おはよう?」
首を傾げながら挨拶をする琉兎は、朱夏に肌を見られたことなど何とも思っていないようだった。
細い腰紐で留めただけの単は少しはだけ、太腿が露わになっている。
頭を大きく振った朱夏は、顔に熱が集まるのを無視して声を掛けた。
「琉兎。ここは、禁域なのだが」
「きんいき?」
「その……私たち帝一族の者しか、立ち入ってはならない場所なのだ」
朱夏の言葉に、琉兎が不思議そうに泉を振り返った。
「こんなに綺麗な水を、偉い人たちがひとりじめ?」
「……」
「とても、気持ちよかった。さっぱりしたわ」
悪びれた様子のない琉兎に、朱夏の顔に苦笑が浮かんだ。
「だが、見つかれば罰せられてしまう」
朱夏の言葉に薄桃色の瞳を丸くして、琉兎が微笑んだ。
「じゃあ、内緒にして」
唇の前に人差し指を立てて笑う琉兎に、朱夏も釣られて笑ってしまった。
白い肌の中で赤く潤んだその唇から、目が離せない。触れてみたいと思う己はどうしてしまったのか。
いや、自分には煌という許婚がいるのだ。他の女子に軽率に触れるべきではない。
体の横で握りしめた拳に、力が入る。
朝の禊をしなければならないのに、琉兎が浸かった後の泉に身を沈めるのは、何故か躊躇われた。




