佰伍
己の寝台に横たわり、荒い呼吸を繰り返す夏勢の姿を、蓮黄はじっと見下ろしていた。
冬廉を授かるまで、毎晩のようにこの寝台に通ってきてくれていた、この国の頂点に立つ男。
政略で結ばれた縁ではあったが、蓮黄は心から夏勢帝を慕っていた。
輝山という名家に負け、正室にはなれなかったが、帝の寵愛を得るのは己だと自負していた。他家から次々に室が迎えられようとも、蓮黄の地位は揺るがないと思っていたのだ。
いつから、夏勢の心が離れたと感じるようになったのか。いや、そもそも、彼は蓮黄を本当に愛してくれていたのか。
市井から迎えた遊郭上がりの女を、昼も夜もなく寵愛しているさまを見せつけられる度、蓮黄の心の奥にはそんな疑問が浮かぶようになっていた。
朦朧とする夏勢の頬に、そっと指を沿わせる。
ふふっと笑って、その耳元に紅を引いた唇を寄せた。小さく、囁く。
「夏勢さま。貴方さまのお心を惑わせた遊女など、わたくしが排除して差し上げましたわ」
「……っ、は……ぁ」
「つれない御方ね。わたくしに妬心を抱かせるために、あのような下賤な者をお側に置かれたのでしょう?」
夏勢の耳たぶを甘く噛み、蓮黄は微笑む。
「わたくしの産んだ冬廉が、貴方さまの跡を立派に継ぎますわ。仙螺の薬はよく効きますの。これからは、ご不自由になったお体を、わたくしが支えますわ」
命までは取らず、手足に麻痺が残って自由に動けない体にする仙螺の薬。あの時、第六室があの場にいたことは、蓮黄にとって僥倖であった。
すっと身を起こし、蓮黄は背後に控える侍女に目を向けた。
「さ、あれを出して。今上さまのご署名をいただかなくてはね」
主に声を掛けられ、彩里がにたにたと笑いながら懐に手を入れた。
「ようやくですわね、蓮黄さま。今上帝さまに深く愛される貴方さまが、その腹を痛めてお産みなさった冬廉親王さまが、ようやく正統な御位に……」
恍惚とした表情を浮かべる蓮黄に、彩里が書状を手渡した。
日嗣宮を冬廉親王に、煌姫を冬廉親王の正室に。
そう書かれた、帝の勅を真似た書状であった。仙螺子飼いの文官の中でも、とりわけ他者の筆跡を真似るのが得意の者に書かせたものだ。
「あの者は、輝山の大臣の署名も、上手に真似てくれたものだわ」
くすくす笑って、蓮黄は渡された書状を手に寝台に向き直った。反対側に回った彩里と力を合わせ、自分で動けない夏勢帝の体をゆっくりと起こす。
背に枕を当て、掛布の上に執筆用の小机を置いた。
「さ、夏勢さま。こちらに貴方さまの御名をお書きくださいな」
耳元で囁かれ、夏勢帝の瞳がうっすらと開いた。虚ろな目が、蓮黄に向けられる。
視線を寄せられたことに気をよくし、蓮黄は夏勢帝の頬に唇を押し当てた。柔らかな感触に、帝の指先が微かに動く。
その指に、彩里がすかさず筆を握らせた。震えて力の入らない帝の指に、蓮黄が上から押さえるように手を添える。
「わたくしと貴方さまの、愛の証である冬廉を、正しい位に」
夏勢帝の背を撫で、口角を引き上げた蓮黄が囁く。
「そうして、後は仙螺に任せて、ここでわたくしとともにいつまでも過ごしましょうね」
言葉を切った蓮黄が夏勢の耳に舌を沿わせようとした瞬間、帝の体が激しく揺れた。まるで、絡みつく蓮黄から逃れるように。
だが、気を悪くした様子もなく蓮黄は笑った。
「まあまあ。そのように暴れては、幼子のようですわよ。冬廉でさえ、もっと落ち着きを持っていましてよ」
くすくすと笑う蓮黄の耳に、夏勢帝の細い呟きが届いた。
「……そ、なた……など、あいし……ない」
驚愕に目を見開いた蓮黄が、その唇を震わせる。ぶんぶんと頭を振り、帝の大柄な体に抱きついた。
「殿方は、お気持ちに素直になれないもの。そのように誤魔化されずとも、わたくしにはわかっていましてよ」
「……ぃ、らぎ……あいし……」
「わたくしは、蓮黄でしてよ。れ・ん・お・う、ですわ、夏勢さま」
「ひ……ら、ぎ……」
わざとらしく溜息を吐き、蓮黄は帝の指を握る手に力を込めた。
「まあ、後からでもよろしいわ。まずは、ご署名をしていただかなくてはね」
筆の先に墨をつけようと彩里が手を伸ばした時、大きな音を立てて扉が開かれた。
びくん、と肩を震わせた拍子に、倒れた墨の瓶から液が掛布へと零れていく。
振り返った蓮黄と彩里の目に、冷徹な光を宿した瞳の朱夏が映った――。




