佰参
烏を伴って本宮へ駆ける朱夏の顔には、煌姫を案じる表情だけが浮かんでいた。数歩後ろを、輝山の兵たちも追ってきている。
黄駕を拘束し、仙螺の大臣を取り押さえても、蓮黄に逃げられては意味がない。腹心の侍女である彩里が煌姫を連れ出したという証言への焦燥感が、朱夏を突き動かしていた。帝に盛った毒を、隠し持っていると報告のあった相手だ。
流れる汗を拭いもせず、朱夏は一心に蓮黄が軟禁されている部屋へと駆けつけた。
扉を護っていたはずの武官が二人、地に伏せていた。
慌てて駆け寄って抱き起こすと、眠らされてでもいるのか穏やかな呼吸をしていた。
ちっと舌打ちを漏らし、朱夏は武官の体から手を離した。貴人の部屋の見張りとして選ばれている武官が、何という体たらくか。追いついた輝山の兵たちに、介抱を任せて立ち上がる。
ばたん、と大きな音を立てて扉を開くと、そこには誰もいなかった。
「……どこへ行った」
地の底から響くような声を出し、朱夏は蓮黄が休んでいたと思われる椅子に近づいた。床に落ちた書状に気づき拾い上げる。
「……仙螺の大臣からの知らせか。冬の宮への立ち入りに慌てたか」
ぎり、と奥歯を噛み朱夏は書状を丸めて袂にしまった。これも、何かの証拠になるかもしれない。
部屋中に視線を走らせる。何か、手がかりはないか。
ふと、寝台に目が留まる。掛布が不自然に盛り上がっていた。
一歩、足を踏み出した朱夏の後ろから、烏の声が掛かる。
「親王さま、吾が」
「……ああ」
歩きだした烏の後ろを、朱夏も追う。烏が慎重に掛布をめくった。
「っ!」
後ろ手に縛られ、口に布を噛まされた侍女が、顔中を涙に濡らして蠢いていた。
「其方……」
「第二室さまの侍女ですね。先ごろこちらを探った際に、側に控えているのを見ました」
「何故、ここで縛られているのだ?」
「さあ……」
首を傾げ、侍女から話を聞く前に周囲を探った。だが、本来蓮黄の部屋ではないためか、それほど調度品も置かれていない。目新しい手がかりはなさそうだった。
溜息を零し、烏に侍女の猿轡を解かせる。
「……ぁ!」
「余計な口は利くなよ。訊かれたことにだけ答えろ。第二室どのはどこへ行った?」
朱夏の低い声に身を震わせながら、侍女が必死に首を振った。
「知らぬか?ならば、其方に用はないが」
踵を返しかけた朱夏の耳に、か細い声が届いた。
「あ、あの……彩里さまが、その……」
「何だ」
「て、煌姫さまをお連れになり。だ、第二室さまを、部屋からお出しに……」
朱夏は寝台の侍女に近寄り、その顔をじっと見下ろした。嘘を吐いているようには見えない。恐怖で青ざめ、全身を小刻みに震わせている。
「武官に薬でも盛ったか。どこへ行った?」
「せ、仙螺の、眠り薬で。第二室さまを、今上帝さまの、元へ」
「っ!」
告げられた内容に目を見開き、朱夏はくるりと振り返った。
「烏っ、奥宮だ!第二室の部屋へ行くぞ」
「親王さま!?」
「あっ!お、お助けを……っ」
足を踏み出した朱夏の背に、侍女の嘆願の声が掛かった。どうすべきか一瞬悩み、朱夏は烏に指示を出す。
「烏。その侍女を放つことに不都合は?」
「……あちらの派閥の者ですからね。このままにしておいた方がよろしいのでは」
「そうか」
蓮黄に仕える者になど、かまけている場合ではない。非情と言われようとも、朱夏にとって優先されるべきは煌姫の安否だった。
「済まぬが、このままここに縛られていてもらおう。後で見張りを寄越す」
侍女の顔を見ずにそれだけ言って、朱夏は部屋を飛び出した。
駆ける朱夏を追う烏が、心に浮かんだ疑問を言葉に出した。
「親王さま。何故奥宮に?」
「其方が探っても、父上がどこにおいでかわからなかった。ということは、籠宮ではなく奥宮か仙螺の屋敷だと思っていた」
走りながら、息も切らさず朱夏は答える。
「だが、仙螺の大臣の様子を見て、あちらの屋敷はないと思う」
「確かに」
青ざめた小心者といった大臣の風情を思い出し、烏は頷いた。
「初めは籠宮のご寝所に移したと思っていたのだが。其方に探れなかったということは、籠宮に父上はおられないということ」
表宮を走り抜け、本宮の先へ。奥宮を閉ざす黒門を目指して、朱夏と烏は駆ける。
「父上に毒を盛ったことを隠すためにも、奥宮という人の出入りの制限された場で、秘密裏に何事か謀っているかもしれない」
朱夏の推測に、烏の表情も険しくなった。
「これ以上、何の企みを……」
「父上の意識がはっきりしていないなら、第二室どのに言われるがまま、あちらの都合のいい書状に署名させられるかもしれない」
「署名?」
最後の曲がり角を曲がり、朱夏は足を止めた。目の前に、黒々とした門が聳えている。
呼吸を整えながら、朱夏は烏に目を向けた。
「例えば。日嗣宮の位を私から冬廉へ」
「っ!」
「或いは、煌を冬廉の正室に」
朱夏の推測に、烏がきつく眉を寄せた。
「本当にそんなことを考えているかはわからないがな。追い詰められた者が取る策など限られている」
「しかも、煌姫さまを連れて、ですか」
「そうだ。煌の前で血など流させたくなければ、大人しく署名しろと迫るかもしれない」
難しい顔で、朱夏は一歩足を踏み出した。男子禁制の奥宮。だが、この非常時にそんなことを言っている場合ではなかった。




