玖拾捌
がくがくと全身を震わせ続ける黄駕の顔から、濡れた手巾が再びずり落ちた。
朱夏は拾わず、瞳を見開く黄駕をじっと見下ろす。涙と涎で汚れた顔が、ゆっくりと朱夏に向けられた。
「……ぁ、あ……」
「……」
「だれ、だ……」
覆い布の内で息を吐き、朱夏は黄駕の頬に傷をつけた短剣を鞘に納めた。
「もう少し、飲ませてやろうか」
凛慈から手渡されていた酒瓶の口を、黄駕の顔に近づける。香りで察したのか、黄駕が後ずさろうと身動いだ。動けないことで、拘束されていることにようやく気づいた黄駕はさらに顔を青くする。
「やめ……もう、ぐっ」
開かれた口に、朱夏は無言で薬入りの酒を注いだ。黄駕の顎を掴み、しっかり飲み込むように口を閉じさせる。
碌な抵抗もできずに酒を嚥下した黄駕が、意味のない言葉を紡ぎ始めた。
「……ぁ、わた、し……は」
「輝山を陥れた帳簿は、どこだ」
「……しらな……」
黄駕が言い終わる前に、朱夏は平手で黄駕の頬を張った。乾いた音が響いた室内に、黄駕の喘ぐような呼吸音だけが聞こえる。
「……ぁ、う」
「帳簿と目録は、どこにある」
「……ふゆ……みや」
朱夏は素早く烏に目配せした。頷いた烏が、朱夏の手に護身用の刀を握らせて部屋を出て行った。夏の宮で待機させている隠密たちに、知らせを出すためだ。
朱夏の側を離れることを最後まで渋っていた。その烏に、凛慈の手を借りて隠密に知らせを走らせることを提案したのだ。
仙螺に制圧されたと烏から聞かされた朱夏は、今はじっと時機を待つように伝えさせた。夏の宮の者たちは、反撃の機会が来るまで、仙螺に従っているように見せかけている。
虚ろな瞳で天井を眺める黄駕に視線を戻し、朱夏は再び口を開く。
「今上帝に盛った毒は、どこで入手した」
「……せん、らが……ふるく、から……ちょうごう」
「では、今上帝に毒を盛ったのは、第六室ではなく第二室ということか?」
「……」
唇を噛もうとした黄駕は、薬の影響で上手く力が入らず涎を垂れ流した。その震える口に、朱夏はさらに酒を注ぐ。
「……っ、は」
「今上帝に毒を盛ったのは、第二室蓮黄か」
「ぁ……う、れん、お……がやっ、た」
「では、第六室は無実ということだな」
酒瓶を枕元の卓に置き、朱夏は扉に視線を向ける。凍えるような瞳をして、凛慈と舎利が立っていた。その背後に、櫻花楼の女たちの気配も感じられる。
「夏の宮に火を放ったのも、仙螺か?」
「……」
「まだ、酒を飲みたいか」
朱夏の言葉に黄駕が開きっぱなしの口を震わせた。
「せん、ら……てる、ひめ……てにいれ……」
「そのために、日嗣宮の不在に火をつけたか?」
緩慢な動きで頭を大きく振り、黄駕が動けない体で朱夏に近づこうとした。
「……せんら、のじだい……みかど、に……とう、れん」
朱夏は大きく息を吐き出した。黄駕に背を向け、部屋の扉へと足を踏み出す。
控えていた凛慈と舎利に交互に目をやる。
「黄駕の身柄は其方たちにやる。だが、まだ殺すな。貴重な証言者だ」
「……御意のままに」
静かに答えた凛慈に頷き、朱夏は寝台のある部屋から続きの居間へと移動した。待機していた女たちが、朱夏に頭を下げて寝室へと姿を消していく。
最後に舎利が移動し、扉は音もなく閉められた。
長椅子に座った朱夏は、その場に残った凛慈に疲れた視線を向ける。
「其方はよいのか」
「恨みが積もっているのは、私ではありませんからね。舎利がいますし、上手くやるでしょう」
「そうか」
頭巾と覆い布を外し、卓に用意された薬草茶を一口含んだ朱夏は天井を睨んだ。やることは山積みだ。
ひとまずは、烏の戻りを待たなくてはならない。
朱夏の前に、凛慈が膝をついた。真っ直ぐに見つめてくる金瞳に、朱夏は首を傾げる。
「どうした?」
「お見事でございました」
「……?」
何を言われているのかわからない朱夏の様子に、凛慈が微笑んでみせた。
「失礼ながら。仙螺の若君と同じとまではいかずとも、それなりに甘やかされた高貴な御方と思っておりました」
「……」
「冷静に、昂らず。憎いであろう相手にきちんと尋問なさり、情報を正しく得られた。その手腕に感服致しました」
凛慈の言葉に、朱夏は小さく笑った。
「随分、褒めてくれるではないか。だが、妻には見せられない」
「その奥方を取り戻すためですから。貴方さまは、いずれ国の頂点に立つ御方。お優しいだけでは、潰れてしまいます」
朱夏の内にある醜い感情を、真っ向から肯定する言葉に朱夏はほのかに慰められた。




