第42話 神に祈りを……。
「ハァー……これからノエル、どうしたらいいんですか」
蚊の鳴くようなか細い声音を吐き出して項垂れる少女。肩口で内側に巻かれた、淡いアクアグリーンの髪が陽の光を受けてキラキラと反射する。
燦然と煌めく絹糸のような髪とは対照的に、彼女の表情は冴えない。
それも仕方のないことだろう。
彼女ことノエル・パーシモンには、誰にも知られる訳にはいかない秘め事を、その小さな胸に隠し持っているのだから。
ノエルの家は現在、没落寸前。
しかし、そんな彼女に手を差し伸べてくれる学友もいた。
どこからともなく彼女の、パーシモン伯爵領のことを聞きつけたリズベット・ドルチェ・ウルドマンは、帝国内の貴族に知られることのない金策手段を彼女の父に授けてくれたのだ。
が、それが更なるノエルの悩みの種となる。
パーシモン家が借金の借り入れをしている商業連合は、こともあろうに帝国と、ジュノス・ハードナーに関する情報提供を求めてきたのだ。
帝国に関する情報は父である、ヒスト・パーシモンが何とか仕入れているものの。ジュノス・ハードナーに関する情報は同学院に通う、彼女でなければ入手困難な状況にあった。
彼女がこれまでジュノスに関して入手した情報は些細なものである。
その一つが、ジュノスの婚約者であると自ら言いふらしている、ステラ・ランナウェイという少女に関すること。
こんな情報でもないよりはマシだろうと、父を介して商業連合の商人に情報を差し出してしまった。
そのことが、彼女の心に大きな十字架を背負わせることとなる。
だからこそ途方に暮れ、項垂れ歩く彼女が辿り着いた先は教会。不本意ではあるが、売国者と変わり果てた自らを清め、少しでも神に許しを請うように祈りを捧げる。
「神様……罪深きノエルをお許しください」
「このような虚像……偽りの神に祈りを捧げたところで、人が作りし虚像が救いの手を差しのべることなどありますまい」
潤んだ瞳と今にも泣き出しそうな声音が小さく教会内に木霊すると、不意にどこからともなく声が聞こえる。
「へ?」
「しーしっしっしっ」
「い、いやぁぁあああああああああああっ!? お、お化けですっ!?!?」
「し、失礼なっ!」
祭壇の奥からひょっこりはんと顔を覗かせた男があまりにも不気味だったのか、ノエルは恐怖のあまり腰を抜かしてしまった。
動けずにいるノエルにそっと歩み寄る男。全身黒ずくめの彼の名はセルバンティーヌ・マッコイ・ノイッティシュ。
唯一ジュノス神を神と崇め、崇拝する新教団体の教祖である。
彼は今日も信者獲得のため、革命軍の仕事が一段落するや否や、一目散に教会に忍び込んでいた。
目的は一つ、彼が偽りの神と言い張る虚像に祈りを捧げに来る者達を、一人残らず勧誘するためである。執念である。
「あああ、あなたは何なんですか!? そそ、それ以上近づいたら……ひぃぇっ!? ひひ、人を呼びますよぉぉおおおお!」
今にも泣き喚き出しそうなノエルに、さすがのセルバンティーヌも困惑の色を隠せずにいる。
私の顔はそんなに怖いのかと、どうでもいいことに思考を巡らせていた。
「ゴホンッ、私はお化けでもなければ、変質者でもありません! ジュノス神に選ばれし使徒でございます!」
「なな、なんですか? その……ジュノス神って?」
「おや? 知らない? 今世界の90%以上が信仰の対象と崇める偉大なる神を!? あなた、救いを求めていますね?」
「な、なんでわかるのですかっ!?」
ノエルは臆病な性格な上、少し残念な子でもある。
従って、セルバンティーヌの嘘にまんまと耳を傾けてしまう。
そもそも、教会に足を運ぶ多くの者は、何かしらの救いを求めてやって来るものだ。
第一、今しがたノエル自身が「お許しください」と、祈りを捧げていたではないか。
しかし、念のためもう一度言うが、彼女は残念な子である。
「私はかの偉大なジュノス神様から寵愛を賜る身、これを見なさい!」
そう言うと、セルバンティーヌは懐から木彫りの人形を取り出した。
見るからに不気味な人形は、おそらくセルバンティーヌが夜なべして彫った物であろう。
十字架に張り付けられた、ギリシャ彫刻のように美化されまくった一糸纏わぬジュノス・ハードナーと思わしき少年。
それを愛しそうに頬擦りする。
「あぁぁあああ!? ぜ、全身が震えるぅうううううううっ!?」
「…………」
全身をクネクネさせて身悶える彼は……もはや変態である。紛うことなき変態である。
しかし、精神崩壊寸前のノエルには、目の前の異常性の塊のような男が崇める神とやらに、興味をそそられていた。
正確に云えば、もはや許されたい気持ちが大き過ぎて、許されるならば、何でもよかったのだ。それくらい、彼女の精神は追い詰められていたのだから。
「あの……ノエルにも、その、その神様は救いの手を差し伸べてくださいますですか?」
「当然でございます! ジュノス神様は例え自らに敵対していた愚か者にすら、慈愛の手を差し伸べられる神です! あなたがどのような罪と過ちを背負っていたとしても、ジュノス神様がお見捨てになられることはないでしょう!」
「こ、こんなノエルでも……ジュノス神様はお救いくださると!」
「勿論です! それが我らの神っ、ジュノス神様なのです! さぁ、あなたにも小さなジュノス神様を授けましょう」
セルバンティーヌが手にするそれよりも、一回りほど小さな木彫りの人形。
ノエルは涙ながらにそれを受け取り、神に救われたのだと一筋の光が頬を伝う。
「かの神は、あまねく神々全てから寵愛を受けた神の化身。というかもう神が顕現してくださったに違いないお方なのです! さぁ、涙をお拭きなさい。そして、あなたもご一緒に……」
「は、はいですぅっ!」
「「ぜ、全身が、ふ、震えるぅぅううううううううう!?」」
教会内に響き渡る不気味な叫び。
この日、セルバンティーヌは知らず知らずのうちに、ジュノス・ハードナーが攻略対象に見定めていたノエル・パーシモンを……陥落していた。
そんなジュノスは現在、教会の両扉の前で動けずにいた。いや、ジュノスだけではない。
共にノエルに話を聞こうと接触を試みていたレイラとエルザは、見てはいけないものを見てしまったと、額に青筋を立てている。
レベッカは……何故か少しだけ羨ましそうに木彫りの人形を見つめていた。
「な、なんなんだ……これは!?」
「ジュノス……きょ、今日のところは見なかったことに致しますわよ。かか、彼女の名誉に関わることですわ!」
「レイラ様の仰る通り……あのようなクネクネ姿を淑女が見られたと知られれば、自害してしまうかもしれませんっ!」
「確かに……あのクネクネはちょっと恥ずかしいかもですね」
エルザ達は敢えて言うまい。気持ち悪いとは……。
それは彼女達なりの優しさなのだろう。
「と、とにかく、あの様子だったらセルバンティーヌのおっさんが嫌でも屋敷に連れてくるんじゃないかな?」
「そ、そうですわね。屋敷に戻ることにしますわよ」
ジュノスは一秒でも早く、この悪夢を忘れてしまいたかった。
セルバンティーヌが自分を崇めていることも、宗教団体的なものを作っていたことも知っていた。
が、まさかあのような奇妙な人形を、後生大事にいつも持ち歩いているなんて……考えただけで背筋に寒気が走る。
足早に屋敷に向かう彼らから遅れること数分、セルバンティーヌとノエルが晴れやかな表情で教会から出てきた。
「あなたは素晴らしく呑み込みがいい! 特別にジュノス神様に会わせて差し上げましょう!」
「ほほ、本当ですかっ!? ノエル、感激で……ぜ、全身が震えるぅぅうううううううううっ!!」
「す、素晴らしい!!!」
セルバンティーヌに続く狂信者が誕生日した、瞬間の出来事であった。




