第5話 森の異変 2
クシフは目を狼に向けたまま、手探りで目当ての物を探りあてた。柄の長い刷毛を。
次は素早く膝を折り、地面の上で化粧箱を開く。こちらも見ないで取り出したのは、手のひらに簡単におさまってしまう大きさの小箱。
ここに来る前にマーベラと出会っていて、本当に良かったと思う。
彼女が、魂にも化粧ができるのだと教えてくれなかったら、きっとクシフは無様に逃げ出し、そしてその背を狼に裂かれていただろうから。
蓋を取り外すと同時に、狼の足が地面を蹴った。体の感触を覚え過ぎている魂は見事に風を斬り、しかし魂であるが故に形を崩しその一部が風に溶ける。
中身を刷毛に含ませ、重心を後ろにしてクシフは立ち上がった。
限界まで待つ。
来い、来い、もっとだ!
焦りと緊張がクシフを満たす。
自分の手にある物が剣や斧であったのなら、こんな面倒なことはしない。
けれども自分には、この刷毛や紅筆しかないのだ。
もう少しで喰い殺される、すでにそんな距離に狼はあった。
――それが、クシフの狙っていた距離でもある。
クシフはほんの一歩、横へと避ける。
自分がもといた位置に狼が着地するのを目に焼きつけながら、右手を振り上げた。
狼が起こす風とクシフの腕が起こす風とがぶつかり、流れを生む。
その流れは銀の粒を内に含んでいた。
それこそが、小箱の中身の正体。
ただの白粉だ。
マーベラに使ったものではない。
もっと粒子が細かく、より光を乱反射するもの。角度によっては銀に似た輝きを放つ。
父から狼の長の話を聞いた時、クシフはこの白粉のような色と輝きではないかと考えていた。
狼は動きを止め、舞う光に目を奪われている。
その隙にクシフは狼の側面めがけて飛びこんだ。
ぐにゃり、視界が歪む。
初めて入った魂の中にクシフは怯む。
魂の中は色がはっきりとした境界線を持たない。呆けていると取り込まれてしまいそうだった。
刷毛を振り回し、狼の魂の中を走り過ぎる。
魂を左右に貫通された狼は痛みを感じたのだろうか、大きく鳴き、足を踏み鳴らした。
銀の粉は揺らめきつつも狼を覆う。
「それがお前の、本当の色だろ?」
白粉の細かな光は付着し、狼の毛並みとなっていた。
クシフが父の話を聞きながら思い描いていた姿が、甦ってくる。
そしてそれは正解だったのだ。
狼は動きを止め、一度鳴いた。
遠くまで響く鳴き声。まるで自分の存在を叫ぶ声に聞こえた。
――それが、今頃は草原でロバ相手にでも一人喋っているのであろう、ビッターラビィとよく似ていて、彼を思い出す。
クシフと同じように無口なロバだが、果たして自分と同じように彼の話に耳を傾けたりなどするのだろうか。
それとも、彼は旅の付添い人でも見つけているのだろうか。
そんなことを考えていたクシフの目の前で、生前の銀を思い出し、狼は走り出す。
おそらく今までの薄れた色との対比で、自分の生前と死を思い出したのだ。
そして生と死の二色を知ったものは、天へと昇る覚悟を決める。
存分に最後の走りを堪能した後、狼は立ち止まった。
まだ何か迷いがあるのか?
狼は静かに森の奥を見つめた。
それが両親らの死の発見現場の方向で、クシフの表情が固まる。
鼻先から狼が振り返る。
今度はクシフを見つめて、また鳴いた。
あっちへは行くな、そう言われた気がした。
そして秋の、風が吹く。
狼は穏やかに瞳を細め、クシフの横にある木に顔を向けた。
そして走り出し、その勢いのまま木へと登った。一番上の枝まで来て、たん、と軽く宙に踊る。
見上げていたクシフが瞬き一つすると、もう狼はいなかった。
名残の粉だけが、木の上から降り注いでくる。
しばらくは目を奪われていたクシフだったが、化粧箱を拾って歩き出す。
森の奥への前進ではなく、来た道を帰る足取りだった。




