第4話 森の異変 1
腰に道具入れの巻き鞄をつけたまま、左手には化粧箱を持ったまま、クシフは森へと入っていった。
森の入り口はリンゴの木ばかり。
逆を言えば、リンゴの木がなくなった時点で、人の行き来できる森は終わる。
そこから先に入ってはいけないというのが、ヤジョヌズの大人達の口癖だった。
父親も紅の材料となる花を摘みによくクシフを森へと連れまわしていたものだが、森の奥にしかない透赤水晶を採りに行く時ばかりは違った。
クシフを連れずに一人で行っていた。
(いいかい? 皆には内緒だ。 特に大工の親父さんには、ね)
家を出ようとする父親は、子供だったクシフによくそう言っていた。
何故大工の親父には特に喋ってはいけないのか、それはもう分からない。
父親も、彼の化粧を毎日身にまとって美しかった母親も、とうに自分より無口な存在になっていた。
より美味しそうなリンゴを持つ木を探しながら、クシフは両親を思い出す。
自分の両親だけではなく、ビッターラビィの両親とヴァネットサミスの両親のことも。
喫茶店を営んでいたヴァネットサミスの家を真ん中に、三人の家は並んでいた。
そんなこともあって、三組の夫婦の交流は昔から多かったという。
一番初めにビッターラビィが、五日後にヴァネットサミスが、その十日後にクシフが産まれた。
そんな団子続きの出産で三家族の仲はより親密となり、クシフが物心ついた時にはすでに年中行事というものが定められていた。
春には皆でピクニック、夏には皆でキャンプ、秋には皆でキノコ狩り、冬には……特に何もなかったがほぼ毎日ヴァネットサミスの家で暖かなミルク茶を飲む。
そんな一年の定期的なリズム。
それがぴたりと止まったのは、五年前。
クシフは十六になったばかりだった。
――クシフの歩みが止まる。足元の木の根元に細いキノコを見たからだ。
一度息を整え歩き出し、クシフの目は再び過去を見る。
その舞台はこの森。そして五年前のキノコ狩り。
けれども自分たちはその舞台に立っていなかった。男の子二人はそれなりにお年頃で、年中行事に初めて不参加の意を出した。
ヴァネットサミスも「二人がいなきゃつまんなぁ〜い」と、共に不参加となった。
そして――
六人の大人は帰ってこなかった。
何故か慣れたはずの森で遭難したらしく、何故かクシフの父親――レイデッドの遺体だけが傷だらけだった。
ヤジョヌズの大人たちは「リンゴの木を越えた奥まで行った為に迷い、レイデッドは狼に襲われたのだ」と結論づける。
そして身寄りのなくなった子供三人は、ヴァネットサミスの家に集まって暮らし始めた。
他二つの家は売ってしまって、今は他人が住んでいる。
クシフは顔を上げる。
ぼんやりとしながらずいぶんと歩いてしまったようで、その「リンゴの木を越えた場所」が近づいていた。
ここを少し行けば、両親らの墓がある。
……リンゴの木を、越えたから、か。
森の奥から流れてくる冷たい風に身をさらす。
クシフが目を向けていたのは、六人分の死体が発見された方向だった。
ここからそう離れていない。
すなわち、リンゴの木を越えたからといって迷うほどの場所ではない。
「なぁ、父さん……どうして」
呼吸と一緒に漏れた言葉。
それに、応じるものがあった。背後の茂みからの視線。動いているようだが、葉を踏む音はない。
何かがいる。
何かが自分を見ている。
そしてこの感覚は、ある種慣れているものでもあった。
茂みから、葉の一枚も揺らすことなく現れたのは、一匹の狼。
しかし狼は人里近い森には下りてこないものだった。だからリンゴの木を越えてはいけない、そういう意味だと、たいていの住人は解釈している。
だがリンゴの木を越えてはいないクシフに、狼は敵意をあらわにしていた。
毛色は虚ろな薄い灰色。四足は太くしっかりと地面を押さえつけ、口がわずかに開いて牙を見せつけてくる。
そして欠けた耳には、聞き覚えがあった。
父が何度か森の奥で見たという、狼の長だ。
父の話では、その狼は銀にも似た美しい毛並みをしており、むやみに牙をむくことがなかったそうだ。
人を恐れる必要がないと知っている、賢い狼なのだという。
ところが、どうだ。確実な敵意には奥底に怯えさえ見える。
そして、何より。
「死んだことに、何故気がつかない?」
周囲と触れ合うことがない薄れた色が、この狼がすでに体を失っているだと物語っていた。
輪郭は生きている狼そのものなのだが、それは狼が未だに体の感覚を持っているから。
体はまだあるのだと当然のように考えているが故に、魂は体の形をしている。
マーベラもそうだった。
人間ならばそれはよくあることだ。
自分の死をすぐさま受け入れ、すんなり天へ昇るという物分かりの良い人間は少ない。
けれども人間以外の生き者は違うのだ。
人間以外の死化粧師はいない。死の儀式を執り行う司祭もいない。それは必要がないから。
彼らの死後は物分かりの良さで成り立っている。
どうしてだ? 何か、あったのか?
すると狼の首筋、腹、腿など、複数個所に血が流れた。狼が思いこみの息をする度に流れていく、思いこみの血。
それが地面に落ち、赤黒く丸いシミを作る。
徐々に広がっていく血溜まりに、色の変化が生まれた。
もとは血であり赤だったはずの沈んだ薄い黒の丸が、全てを拒絶する漆黒となった。
そして形が変わる。
平面的な円から盛り上がり、まるで巨大な手のように狼の腹につかみかかった。
はっ、とクシフは睫毛を揺らす。
一瞬の瞬きの後には、漆黒などどこにもなかった。狼にも血は流れておらず、ただクシフを睨みつけていた。
なんだったんだ、今の……。
狼は身を低くし、クシフへと襲いかかる準備を整えた。
ただの魂であるなら、触れられることなく済むだろう。
けれども生きているのだと強く思いこんでいるものは別だ。その思いが強ければ強い程に、魂は体を思い出し、そしてそれを実行してしまう。
呼吸の一つ一つと、それに連なった筋肉の細かな動き、そんなものまで忠実に再現してしまっているこの狼は、危険だ。
「やるしか、ないか」
クシフは腰の道具入れに手を伸ばす。




