第26話 子供たちの悪戯 4
訊ねておいて同意も待たず、彼は動きだす。
手始めに狙われたのはエレだ。
レイデッドを覆っていた黒が一本だけの腕をエレへと伸ばし、その指先には引き裂こうとする暴力的な力を持った爪が。
剣によってそれは弾かれたが、遅れて動くレイデッドの体はエレの動作の隙をついた。
「君は、私の愛しい子供たちでもない。食ったところで、美味そうでもない」
紅筆が横に一閃を描く。エレは避けようと身を引いたが、直線が彼の胸に引かれた。
肌の色を曇らせ若々しさを失った老婆が、それでも鮮やかさを顔に取り入れようと好む、深い薔薇色の線。暗いこの森で、それは静かに怪しい輝きを放つ。
「だから、遊んであげる気は、ないよ」
化粧箱から黄色の小瓶を取り出し、クシフは駆け出す。紅筆を振り上げたレイデッドが何をしようとしているのか、分かってしまったから。
レイデッドはなんの動作も見せず紅筆を出現させ、そして紅皿を出すでもなく毛先に色を宿らせた。
ならばあれは、普通の紅ではないのだ。心理的な、と言おうか、あれは色の形をした記憶と感情。
生前のレイデッドが仕事としてあの色を唇にひいた、老婆たちの老いへの恐れの感情の塊。
老いの先には死が待っている。それは誰にでも容易に想像できることで、あの色はつまり死への片道切符。
エレはその場で膝をつく。心にまで刻まれた紅に、瞳は陰り、剣が手から落ちようとしていた。
「レイデッドさん!」
ビッターラビィがクシフの後ろから叫ぶ。
「思い出話をしてやろうか!
俺の親父と大工の親父の大喧嘩の話だ。仲裁に入ったレイデッドさんは逆に二人に殴られたな!
レイデッドさんがレイデッドさんじゃなくなってしまったかのような顔になってしまったな!」
言葉の中に異様な程「レイデッド」という名を含ませる彼の声を聞きながら、クシフは蓋を外した小瓶をエレの胸へと投げつける。
そしてレイデッドとエレの間に立ちはだかった。紅筆を振り下ろすレイデッドの腕を、クシフは下から受け止める。
「へえ。化粧落とし、か」
紅筆を持つ腕に力をいれてくるレイデッドの顔が近づく。
クシフが始めて母に化粧をしたのを見て、誉めてくれた時の顔に似ていた。懐かしくなって、寂しくなって、心が揺らぎそうになる。
「あの後レイデッドさんの頬は三日間腫れて、レイデッドさんの額の傷は五日間包帯が取れなくて、レイデッドさんの機嫌は十日間悪かった!」
思いつく限りに言葉を並べるビッターラビィの存在で、クシフは心の揺らぎを消す。
自分の限界までの力でレイデッドの紅筆を押し返した。
エレは紅を消せただろうか。そんな不安も一瞬浮かぶものの、背後での立ち上がる音でそれも消えた。
「次はレイデッドさんがヴァネットサミスの家でミルク茶を吹き出した話だ。
しょっぱかっただろう、あれ。実はレイデッドさんのカップに塩を入れたのは俺だ!」
呼吸も忘れて騒ぐビッターラビィ。レイデッドからかなりはみ出していた化け物は、そんな彼をうるさく思ったのだろう。
レイデッドはクシフと睨み合うままに、黒だけがビッターラビィに仇なそうと向かう。
鞭の如くしなやかに、黒い腕は伸びた。化け物と父とのちぐはぐな行動に、彼らが分離をかなり進めたのだとクシフは確信する。
競り合っていた手の力の角度を、変える。万歳をするように、手をレイデッドの紅筆ごと振り上げる。そして刷毛がクシフの手から離れた。レイデッドの手からも紅筆が舞い上がる。
「懐かしいだろ、なあレイデッドさん!」
迫り来る黒い腕に臆することなくビッターラビィが叫んだのと、クシフが半身を回転させてレイデッドの横をすり抜けたのとは、同時だった。
クシフの視界の上隅で、投げ上げられた刷毛の力と重力とが拮抗する。
一瞬の静止の後、落下は始まった。
白粉を散りばめながら暗い空を下りてくる。
レイデッドはクシフを追おうと身を捻らせる。
……父さん、少しだけ、貴方のことを思い出させてくれ。
瞳を閉じ、その瞬間に網膜は思い出を映し出した。
ビッターラビィが大声で語った思い出も、クシフと父だけの秘密の思い出も、母も交えた幸せな思い出も。
帰りたい。
魂が、慟哭する。
肩から入りこんだ彼らの魂がクシフの中に広がり、化け物と父とを求めて暴れだす。
ぎりぎりのところで耐えるクシフには、目を開けなくても肩に甦った闇を感じることができた。元の鞘に戻ろうと闇は触手を伸ばしている。
目を開いたクシフは、左手で左肩をつかんでいた。
帰るという願いをこめた触手を邪魔され、闇が怒り狂う。クシフの左手までを侵そうとし、漆黒が手のひらに付着した。
これで、いい。
眉墨だけではあの化け物の黒に同化できないと踏んでいたクシフは、これで完璧な武器を手に入れた。化け物の悪意である闇そのものとなった左手。
それを制そうと、魂の乱れを正そうと、クシフはビッターラビィとヴァネットサミスの姿を目に焼きつけようとした。
ビッターラビィが黒い腕に触れられるまさにその瞬間。刷毛が地面に接触する音がし、白粉に悪意を汚されたレイデッドの悲鳴がし、クシフの左手は黒い化け物をつかんだ。
ビッターラビィはクシフを目にして、一人立っている。
一人、だ。傍にヴァネットサミスはいない。
クシフは渾身の力をこめて、同化した化け物の内側を握りしめた。
――もし、蝉が脱皮する時にその蝉にしか聞こえない小さな音があるとしたら、それはこれなのかもしれなかった。
心地悪い、けれども達成感ばかりはひとしおの「ずるり」とした音。それはレイデッドと化け物の黒との接点からした。
やった、か!
クシフは化け物をつかんだまま振り返る。確かに黒はもうレイデッドに触れてはいなかった。
けれどもここからが、一番の難関。
「クシフ!」
ビッターラビィが危機を叫ぶ。
黒が元の化け物の大きさに戻り、クシフを左手から包みだす。
クシフの周囲は漆黒となった。
そして端から蝕まれていく。内側からは、先に入りこんでいた闇が外へと向かって進行をしだす。
魂が食われる感覚のみがクシフの全てとなり、耐えることすらも不可能。
自分の浅はかさを罵らずにはいられなかった。この化け物の単純にて大きすぎる悪意を制するなど、初めから無理だったのだ。
自分にできれば父も食われることなどなかったのだ。
まあ、でも、父さんは救えたんだよ、な。
思考が停滞しだし、ゆっくりとあきらめが頭をもたげる。
もう、いいか。
きっとエレが俺ごと化け物を斬ってくれる。そうしたらビビィもヴァネッサも傷つかない。
……それで、いい。
もう、眠ってしまおう。そう思って、クシフの全てが止まりかける。
化け物の、乾いた馬鹿笑いが耳を突いた。
「――フ!」
異質な声が混じる。
「クシフ!」
自分を呼ぶ、男の声。懐かしい気がしたのに、誰なのかよく思い出せない。
「クシフ! しっかりしろ、前を見ろ!」
何かに触れられた。小さなそれはクシフの魂を抱きかかえる。声と触れたものとは、違うものだと感じた。
この声の主がこんな小さな触れ方をするはずがない。
途端に脳裏に弾けたのは、狼の長の魂が天へと送られた後に残った白銀の煌き、そしてレイデッドの頭上に振り上げた刷毛から舞い散る白の粉。
はっと、クシフに瞬きという感覚が甦った。
すると一面の漆黒はなりを小さくし、自分の左肩までを覆う黒となった。
父の顔もなにもかもがなくなって、ただ一色の黒い塊となった化け物が喚き、クシフを呑もうと躍起になっている。
解放されたレイデッドの魂は地に倒れた格好をとっている。
動けぬビッターラビィがクシフの名を呼んでいる。化け物の背後に、剣を掲げたエレがいる。
そして。
「こぉぉぉんのクソ化け物がぁぁぁぁぁ!」
高い声をどんでん返しに低くするヴァネットサミスが、クシフの後ろにいた。クシフの腰に細く白い両腕を回し、化け物に奪われまいと。
「あーんたなんかぁぁぁ!
だぁぁぁいっ嫌いなんだからぁぁぁぁぁあ!」
化け物の全てを拒否する、全身全霊の罵倒。
ヴァネットサミスの力が働き、見えない壁ができあがるのは、当然のことだった。
一間の静寂。
その後に、化け物の凶悪な黒い体はわずかに後ろへと飛ばされる。本当にわずかだったが、それでもその隙をついてクシフが腕を引くには十分だった。
クシフの魂にしっかりと馴染んでしまっていた肩の闇だけが、名残惜しそうに化け物との間に黒い糸を引く。
それもやがて、ぷっつり切れてしまう。
化け物の口が開かれた。その中にはより黒く淀んだ色が渦巻いており、父の声ではない音が吐き出される。
なんと言ったのか、はっきりとは聞き取れなかったが、それは子供の駄々のような印象があった。玩具を取り上げられた子供のわめき声。
「さよなら、だね。化け物」
終わりを告げる、温度のない声。
化け物が頭上にある金属の輝きに気づき顔を上げた時には、もう剣は彼の黒い顔面に触れていた。




