第25話 子供たちの悪戯 3
振り返る彼は、完全な父に見えた。
しかしその瞳の奥に、消えることのない化け物の悪意がたたずんでいる。
化け物がより濃く父の色を出し始めている、そうクシフは感じた。
もしかしたらビッターラビィが何度か父の名を呼んだのかもしれない。
そして呼ばれれば呼ばれるだけ、父は自分自身を思い出してしまう。
忘れろと言った真意は、ここにあったのだ。
クシフは白粉を含ませてある刷毛を腰から抜いた。そして時を待つ。
化け物は――レイデッドは、その様子を面白そうに眺めていた。
「それで、何をする?
私の肌を死者のように鮮やかに彩るか? そして天に迎えられる魂にでも仕上げるつもりか?
こんな、闇をはらんだ私を?」
クシフは舌を鳴らす。
レイデッドの記憶が強く甦った今、クシフの手は読まれているも同然だ。自分に化粧の技を教えたのは、父なのだから。
刷毛を強く握ったままレイデッドを睨む。
視界の隅に、ヴァネットサミスを連れて静かに移動するビッターラビィの姿があった。
そして反対側の木の陰には、エレが息を潜めている。
そうだ、それでいい。
俺たちが時間をかせぐから。
だから早く逃げてくれ。
そう思ったのに、ビッターラビィはクシフの望みとは異なる行動をとる。
レイデッドを中心とした円の淵をたどるよう、クシフを目指していた。
そしてレイデッドの横に回り、彼にその姿を見つけられたであろうタイミングで、わざわざ大声を上げる。
禁句である、名前を含ませて。
「レイデッドさん! 俺たちはこれから悪戯をするぞっ。なにせ子供なもんでな。
しかし子供の悪戯には、内緒話で練り上げられる計画が必須だ! だから時間をくれ!」
首だけ、レイデッドは動かした。
そして片眉が上がる。不機嫌に。
それがエレの飛び出す時だった。
ビッターラビィへと注意を向けたレイデッドは、エレに後頭部を見せる形となる。
すぐに振り向いたとしても、エレの剣を受けるべき側の腕はない。
エレがレイデッドへと斬りかかった。
「親は、子供の悪戯を見つけては、叱るもの。悪戯の芽を見つけては、それを摘みあげるもの。
……親であった私に、その提案はないだろう」
レイデッドは動かない。
しかしエレに気づかなかったわけではなかった。動く必要がないと、知っていたのだ。
黒く小さな者たちが、エレとレイデッドの間に割って入る。
一つ一つは小さな者たちだったが、集団となると壁の役割を果たした。
黒い塊に剣が食い込み、威力が弱くなる。
それでもエレは、どうにか壁だけは斬り裂いた。
斬られた黒い者たちは、刃に当たった部分から消えていく。
ビッターラビィとヴァネットサミスはエレの登場に目を瞠っていたが、ビッターラビィはすぐにレイデッドへと口を開く。
「いいや、これはレイデッドさんにとっても良い話だ」
名前を強調する口調で言い、ビッターラビィはにやりと笑う。
その間にも、彼はクシフとの距離を縮めていた。
「この悪戯は、遊びの難易度を上げるぞ」
一体ビッターラビィは何を思いついたというのか。
一つクシフに分かったことは、レイデッドが提案を受けたということ。
彼は一歩足を引き、ビッターラビィとヴァネットサミスがクシフのもとへ駆け寄るのを黙って見ていた。
二人が自分のすぐ傍に来るまで、クシフは警戒をレイデッドに向け続ける。
「二人とも大丈夫か?
ああ、ヴァネッサ、手痛むよな、ごめん……」
「私すっごく怒ってるんだからねぇ!
でも無事に皆で家に帰れたら、許してあげる」
「そうだぞクシフ、あれは反省しろ。
……それじゃ、内緒話といくか」
ビッターラビィがあごを引き、下がった眼鏡から真剣な眼差しがやってくる。
声は小さくなった。内緒話の始まり。
三人は頭を寄せ合った。こんなことをしたのは、何年ぶりだろうか。
「何をする気だ? それと、父さんの名前は、口にしない方かいい」
「それだ。あいつをレイデッドさんと呼べば呼ぶほどに懐かしさが増す。
これは俺の感情の問題だけじゃない。
あの化け物に食われたレイデッドさんの魂が、名前に反応して形を取り戻していくんだ。」
「だから呼ぶな。俺たちは化け物と戦うんじゃなく、父さんと戦わなきゃならなくなる。」
「逆だ。レイデッドさんの魂が完全に自分を取り戻せば、あの化け物から切り離せる」
父さんを、切り離す?
そうなれば、おそらく父の感情が戻る。
化け物の悪意に侵され狂った言葉を吐く父から、穏やかな優しい声を出す本来の父に。
ならば、死を受け入れさせ天へと送ることも、可能だ。
人として、死ねる。
それを自分はどんなに望んでいただろう。望んで、エレに剣で消さないでくれと頼んで、けれどもどうすればいいか、わからなかった。
「レイデッドさんは俺にこう言った。
あいつは俺の言葉を聞く気がないから、俺の言葉を受けつけないってな。
ところがどっこい、あいつには一つだけ聞きたがっている言葉がある。
名前だ。
俺にレイデッドと呼ばれるたびに、あいつは変化する。
ならそれは、レイデッドという言葉だけなら、俺の力が及ぶということさ」
ここでクシフは気づく。
内緒話の最中でも「レイデッド」という言葉だけビッターラビィが大きく言っていることを。
ビッターラビィは少しでもこの言葉を重ねようとしていた。限りなく憶測に近いこの答えを、正解へと近づけるために。
クシフは目をレイデッドへと向ける。
彼はエレに剣を向けられながらも、のんびりとした様子を見せていた。
しかしそんな姿にクシフは一つの異変を見つける。
それはレイデッド周囲の黒だ。
レイデッドの形に添うように、レイデッドの影が背中に貼りつき揺らいでいるように、その黒はある。
「それで、だ。俺は名前を呼ぶことはできるが、それだけで本当に化け物とレイデッドさんを別々にできるか心配ではある。
リンゴを皮、果肉と名付けて区別することは口でできるが、物理的に分けるにはナイフがいる」
「じゃあ〜、エレさんの出番ってことぉ?」
ヴァネットサミスは、ナイフの役割を果たす物が剣だと考えたのだろう。
だがそれでは過ぎていることをクシフは知っている。
あの剣は特別なのだ。本来は触れられるはずのない魂を裂き、そして消してしまう。
その効果は狼の魂にも、あの化け物の腕にも同等に働いた。
クシフは再びレイデッドを見る。
見て、彼を覆う黒はあの化け物自身ではないかと思いたった。
色が同じなのだ。
あの黒の揺らぎは、重なっていたものが、ぶれ始めていることを示しているのではないか。
なら、ビッターラビィの言うとおり、父と化け物の分離が可能に思う。
あれを、引き剥がせさえ、すれば。
何か方法はないだろうか。
クシフは手当たり次第に考え、ヒントはないかと目を働かせる。
暗くなった空、暗くなった周囲の景色。
そして目は、自分の手を捉えた。左手だ。
眉墨を塗った左手だけが、辺りの暗さにいち早く同調していた。
「……俺が、ナイフになれるかもしれない」
左手を見つめたまま、見つけた答えを言葉とした。
黒は、深淵、夜空、闇……闇への、同化。
同化してしまえば、クシフは父のようあの化け物に好きにされてしまう。
けれどもそれなら逆もありえるはずだ。クシフがあの化け物を制する。
そして、内側まで深く入り込んで、父を切り離す。ナイフとなって。
「――そろそろ、いいかな?」
レイデッドの静かな声が場を支配した。
手には、いつの間に持っていたのか……紅筆が一本。
生前彼が愛用し、棺に納めたはずの物だった。




