第23話 子供たちの悪戯 1
何者かの、視線を感じた。
自分の体にしがみつき、きゃあきゃあ騒ぐヴァネットサミスの腰を抱きしめて、ビッターラビィは周囲への警戒を強めた。
彼女はまたお得意の勘違いを起こしたらしく、頬を赤らめる。なんだか激しく愛を囁かれた気もするが、反応する余裕はなかった。
もちろん、彼女への愛と欲望が爆発したから腰に手をやっているのではない。
いざという時に彼女を抱き上げて走り出すための、準備だった。
「――見エる、見えル、ニん間が、二人」
聞いたことがあるような、しかし不快感しか感じない声。
まるで森が喋ったかのように、四方八方から聞こえてきた。人影は見えない。
「なぁにぃ? どっかの誰かさんのぞき見ぃ? 趣味悪すぎぃ」
ヴァネットサミスが言うなり、ビッターラビィは彼女を抱き上げた。
「ここにいたらヤバいな。
偉大なる子狸ポルラガマヌヌはかく語りき。人は五つの感覚ばかり使うが、その体には第六感、第七感と様々なものが眠っている。ってやつか」
ヴァネットサミスを抱えたまま、走る。
彼女の手を引いて走った方が速いだろうが、そうしてはならないとビッターラビィの第八感あたりが信号を出していた。
「いや〜ん、ビビィったら何する気ぃ?
このまま木陰に連れこんで悪戯しようとしてるのねぇ?
ダメよぉ、誰かに見てるんだ・か・らっ。それとも見られてる方が興奮するっていうのぉ?
知らなかったぁ、ビビィにはそういう趣味があったのねぇぇぇ!」
腕をビッターラビィの首に回し、酔ったような瞳を向けてくるヴァネットサミス。
いつものように軽口で返す余裕は、なかった。
走れば走るだけ後ろへと流れていく森の光景に、変化が起こる。
視界の端に黒が見えたのだ。
それは何かの影ではない。
木と木の隙間にいたかと思うと、次は枝々の上に。そして。
「――なァ、おマえ、遊ぼウぜ。
クシふは、遊んデクれたんダケどナぁ」
背後から、声が。見渡すともう、木の隙間にも枝の上にも黒い何かはない。
ビッターラビィは速度を速める。
クシフは……どうなった?
息が上がり熱くなる意識で、必死に彼の姿を探そうとする。
クシフはあの藪の向こうまで行ってしまったのだろうか。あの藪はこんなに離れていただろうか。さっき耳にした叫び声のようなものはなんだったのか。この声はなんなのか。
そんなことが頭の中を回った。
「ナぁ、なんデ走ルんだヨ。やッパり人ゲんって、暗くナルと家ニ帰らなキゃナラないノか? パぱとママってノハ、怒るとソンなにコわいのカ?」
響いてくる声の「パパとママ」に、非常な悪意を感じる。
それは自分の両親がすでにいないからだろうか、それとも――。
「気をツケろよ? 五ネん前もサあ、そンナふウに僕かラ逃げよウトしたヤつらガイたんだ。
封じノ綻ビのアなに落チテ、死んだケドさ」
「誰だ!」
ついにビッターラビィは振り返る。
……振り返っては、いけなかった。このままクシフを探して走り続けるべきだった。
「ダれと言わレても、ボくにハ名前がナイ。
……そウダな、にン間の言葉デ言うナら、地獄カラぐルメ観光ニキた悪魔、ジャねーノ?」
両腕を広げておどけてみせる、漆黒の巨体。
その姿を目の当たりにしてしまって、ビッターラビィはもちろん、ヴァネットサミスも喉の奥に悲鳴をためた。
顔が。
「ボくがグるメ観こウに来た悪くマなら、お前ラはご当地グルめダ。しカも食べル過程がタノしメるやツ」
楽しそうな表情を浮かべるそれは……。
レイデッド。クシフの父親。
冬の朝に冷水を浴びるよりもなお冷たい感覚が、背中を舐めた。
悲鳴を上げる暇もなく、ビッターラビィの第九感あたりが「横に跳べ」とけたたましい警鐘を鳴らす。ビッターラビィはそれに従った。
ビッターラビィがいた位置をレイデッドの顔をした化け物が駆け抜ける。
「う、そ……なんで? おじさ、ん……」
ヴァネットサミスの声は震え、ビッターラビィを強く握る。
化け物がゆっくり振り返る。
腕が一本欠けていた。さらには足の色が違う。焦げたような、そんな色だ。
ビッターラビィの視線に気づいた化け物が、レイデッドの口を開く。
「こレ? クシふにヤラれチゃった。あイツ強いよナぁ」
痛みはないのか、足をぷらぷらと振っていた。
「――ビびィ君ハ、どウだ? 強イノかなぁ、僕ヲ楽しマセられルノかなあ」
自己紹介もまだだと言うのに名を呼ばれ、しかもそれが今までたった一人にしか呼ばれたことのない呼び方で、ビッターラビィの頭を混乱が占める。
「ヴァねっサちゃンは、美味シイんだロウなぁ。
きっトボくが食っタこトのなイヨうな味ヲシてるンダろうナぁ。ぼクの飢エを、キっと完ゼんに満たシてくレる。」
まただ。ヴァネットサミスのその呼び方、そう彼女を呼んでいたのは……。
「レイデッドさん、なのか……?
だって、クシフは」
化け物に食われたと、そう言ったじゃないか!
顔を貼りつけているだけではない、レイデッドの記憶を持った化け物が、笑っている。
そしてビッターラビィは思い出す。
(俺の魂の中に入ってきたのは、あの化け物と、食われた父さんの魂とが、混ざったものだから……)
それは、こういうことなのか。
人間が牛や鶏を食べようとも、その記憶が体に蓄積することはない。
けれども食った側がこんな化け物だった場合、食われたのが魂だった場合、こうなってしまうというのか。
「レイ、デッド……さん。じゃあ、なんで……」
どうしてこんなことをするんだ。
その問いは喉の奥で消えた。
それは愚問だった。
化け物と混ざってしまったから、彼はその悪意の一部となって自分たちの前にいるのだ。
化け物はこちらに向かって一本だけの黒い腕を伸ばす。
ビッターラビィとヴァネットサミスに害を与えようとしていることは、歪んだ口元からもあきらかだ。
「止めて、くれ。レイデッドさん」
ビッターラビィが下がりつつ口にした言葉に、化け物は一瞬虚ろな眼差しを上へと向けた。
そして見えない引き出しを引くように、その中にあったものを確認するように、呟く。
「……そう、だ。私の名前は、レイ……デッド」
顔が伏せられ、次の瞬間に漆黒の体が縮みだす。単に小さくなるというよりは、圧縮という方が近いかもしれない。
クシフ程の背丈へと。
そして、顔は上げられる。




