第21話 共闘と、愛の共同作業 2
クシフは化け物に向かい一直線に駆け出す。
その行動に、また「帰りたい」という魂の叫びが上がったが、クシフはそれを打ち消す。
ビッターラビィとヴァネットサミスを思い出すことで。
父の顔がわずかに下を向き、クシフの紅筆を目にしたようだった。しかしすぐに顔を上げ、化け物は動く。
両腕を振り上げ、勢いよくクシフの頭上へと振りかざす。クシフは横に飛んだ。
黒い手が地面に触れるなり、大きな振動と風圧を起こす。
クシフはバランスを崩し、紅筆が手からこぼれた。
そして化け物の腕は横薙ぎにクシフを狙ってくる。
「――くそっ」
土の上を転がっていく紅筆を拾う余裕は、なかった。無理矢理な体勢のまま後ろに倒れこみ、かろうじて大きな手をかわす。
尻をついて隙が生じたが、化け物は当のクシフより紅筆に興味を持ったようだった。
手の大きさに不釣合な紅筆をつまみ上げ、自身の目の前まで持っていく。
「あノ男も、コンなのフり回シテたナ」
紅筆はまるで糸くずのように成り下がった。
「あのトきはこレガ何か分かラなカったよ。
人間ッてホら、コマるとソこの男みタイに刃物を振りマわすダロう? こんナノで僕ニ挑んデキたのハ、お前トアのおとコだケだぜ?」
左手だけは土で汚さないようにし、クシフは立ち上がる。
いつでも次の行動が取れるように、目は闇に向けたまま刷毛を取った。
その横をエレが駆けていき、紅筆を眺めている化け物の足へと剣を鋭く下ろす。
化け物は目もくれず足を振り上げ、黒い風を起こして身を守った。
だから剣は黒い風を斬るだけに終わり、剣は地面へと浅く突き立てられる。
同時にエレが聞き慣れない言葉を発したのを、クシフは聞いた。言葉が終わり、剣が抜かれると、また足場は増えていく。
それは化け物の足元まで達した。
化け物は気づかないのか、学者のような口調で言葉を続ける。
「こレは人ゲんの持つ玩具ニシては過ぎルな。だっテ、僕ニトってオマえコソがオもチャなんだ。
玩具自タイが危険ヲ持ってイたら、安心シて遊べナイだロう?」
「――あっ」
物理的な衝撃は、何もなかったように見えた。
それほど簡単に、黒い手の中で紅筆は折れた。
黒い闇を背景に落ちていく淡い赤は、用を終えたマッチが振り下ろされ消されようとしている姿に似ていた。
――赤は、活気、野蛮、火、恐怖。
クシフがそう思い描いた途端、紅筆の先は化け物の足先で紅蓮の炎と化した。
そして黒い足を舐め始める。
「っ! うワぁ!」
火のついた右足を大きく振り上げ、化け物は火から逃れようと暴れる。足が強く踏み下ろされる度に、地面は揺れた。
エレはその隙を見逃さない。
大きな跳躍で化け物の腕の高さまで上がり、剣を振り下ろす。
今このタイミングでなら、化け物の胸に狙いを定めることもできたはず。
しかし彼はそれをしなかった。おそらくクシフの思いを尊重してくれた。
化け物の二の腕から先が、離れた。
玉遊びをしている少年の影から、ボールの影が離されるように。
そして叫びは上がる。
空気の一つ一つがぶつかりあい、潰し合うかの如く、細かく激しい叫び。
その音に顔をしかめながらも、地面に足を着けたエレは次の動きをとる。
今まで何度もそうしていたように、剣を大地へと。
ここでクシフは悟った。彼はあの化け物を地の底に帰す気はないのだ、と。
倒すと言っていた彼はもとからその気がなかったのかもしれない。けれどもクシフには、化け物が父の魂を含んだまま再びどこかへ行ってしまわないための措置に思えた。
ふいに、周囲を揺るがしていた音の質が変わる。それは笑い。
「僕ハさァ……腹が減っタんダヨ、クイたいンだよ。退屈ナんダよ、あソびたインダよ」
片腕を失い、それでも父の顔は歪んだ笑みを貼りつけている。
「穴をフさグか、それモイいさ。だケドいイか? これデ僕はコノ世界でしょクじをすルシかなクなったゾ? こノセかイで暇ヲ潰すたメニ、この世界ノオもチゃで遊ぶシカなクなったんダぜ?」
食事と玩具、と聞いて、クシフの脳裏に過ぎた人影があった。
「食ベタい、遊びたイ。僕にハこの二ツノ大きなよっキュうがアる。どウヤらそノ欲求はデカすギて、僕かラハみ出ていタらシい」
クシフの肩に痛みが走る。
あの化け物へと融合しようと魂が暴れ出す。
クシフはそれに耐えようと、ビッターラビィを思い出す。ヴァネットサミスを思い出す。
だがそれは、先ほど脳裏に浮かんだ人影でもあった。
はみ出した化け物の悪意は、リンゴの木を超えた時点でクシフとビッターラビィの動きを奪った。
つまりは禁忌の地全てに広がっており、その強さは身をもって体験している。
自分に混ざったものだけだは、けしてないと感じる。なら、その他の悪意は……。
「今ハ、もう、こノもリ中に僕ノ欲求がミちテいる。――見エる、見えル、ニん間が、二人」
化け物の瞳が急に虚ろになり、ここではないどこかを見ていた。
そして次の瞬間、化け物の形が崩れる。一挙に。風船が割れてその残骸が地に降るように。
バケツの水をぶちまけたような音がして、地面に黒いシミができた。
そのシミは動く。
地を這い、藪へと消えた。
「何が起こったんだ」
何が起こったのか、そんなことは明白だ。
あの化け物は食事をしに行ったのだ、新しい玩具で遊ぼうとしているのだ。
「急ごう。二人が危ない」
駆け出し、化粧箱を拾う。
蓋が上手に閉まっていなかったのか、持ち上げる拍子に中身が一つ転がり落ちた。
それは紅皿。
自らの意思でそうしたように跳ね出し、空間で美しい紅の円を描いて、そして地へ。
もう役目は終えたというのか、そこで割れた。




