第20話 共闘と、愛の共同作業 1
走る速度を緩めることなく、クシフは紅筆を取り出す。
狼につけた紅で固まりかけていたそれを口の中に含んで溶かし、続いて化粧箱から器用に取り出した紅皿から紅を絡めとる。
そして、心の中で赤の意味を呼び覚ます。
赤は、歓喜、闘争、血、太陽。
一つ目の武器となった紅筆を口に挟み、次に刷毛を取り出す。
刷毛にはいっぱいに白粉を含ませた。
走る振動でこぼれる落ちた粉が、ひときわ輝かしさを残し風とともに森へ消えていく。
白は、純真、高貴、光、皓月。
二つ目の武器となった刷毛はそのまま腰に戻し、最後に四角く練り固められた眉墨を左手のひらに塗りつける。
黒は、沈黙、静寂、死、暗黒、闇……
三つ目の武器となった左手は何度も風に触れたが、眉墨は風に溶けてはいかない。
のっぺりと付着して、その時を待っているようだった。
さて、この単純な三色であの化け物をどうするのか、と問われると、クシフには具体的な答えが出ない。
けれども明確な答えはある。
これで、どうにかするしかないのだ。
同じ技を持つ父も、化粧で挑んでいた。手応えはあったが、父は負けてしまった。
勝利を得るには越える必要があった。
父を、あの化け物を、クシフが越える。
(やっぱりお前には才能があるんだろうなぁ)
父の嬉しそうな声が耳の奥から響いてくる。
その才能とやらで、超えられるだろうか。
クシフは土を蹴り上げ、見えてきた藪を目指す。
藪の向こうに、化け物の姿が見えた。
そして、エレも。
彼はクシフの武器よりよほど殺傷能力のありそうな剣を振るい、化け物に挑んでいた。
素人であるクシフの目からしても、その動きに隙はなく、かなりの手練れの印象だった。
だが、化け物を圧倒するには至っていない。
……あの剣で、あいつを斬らせるわけには、いかないな。
エレは今までも、あの化け物のような存在たちを倒してきたのだという。
倒す、というぐらいなのだから、それは天へと送るという意味ではないだろう。
狼の魂が内にクシフの魂を抱えたまま消えてしまったように、エレは化け物を消すつもりなのだ。父の魂ごと。
それはクシフの望む結末ではない。
自分はなんとかして、父を救いたいのだ。
クシフはくわえていた紅筆を右手で強く握る。
そして藪を飛び越えた。
化け物に投げ飛ばされた後に穴の上を歩けたのだから、もう落ちることはないだろう。
そう思っての行動だったが、着地した大地は半透明ではなかった。
足元に、何か幅のあるものを刺したような跡が。それがエレの剣と同じ幅であろうと気づいたのは、頭を上げてからだった。
彼は化け物の腕の動きをかわし、後ろへと大きく飛んだ。着地の瞬間に素早く大地に剣を刺し、そしてその場からすぐに離れる。
その地点から大地が色を取り戻していくのが、クシフにも見えた。
あれが、彼が語った封じなのかもしれない。
色の戻りは化け物へと向かって伸びたが、化け物の腕の一振りで止められる。
化け物の近くには、彼が這い出てきたであろう本物の穴があった。
暗く暗く、どこまでも下を感じさせる穴。
あのすぐ下はクシフの魂が落ちた場所であろうが、そのさらに下は想像もつかなかった。
「アあ、戻ッてきタか」
クシフがその場に化粧箱を置き、立ち上がった時。化け物に貼りつく父の顔が嬉しそうにする。
無邪気な子供のようでもあった。
それでいて口角を上げた口の中には邪気の塊が見えるのだから、目眩を覚える。
「クシフ!
なんで戻ってきたんだっ、あの二人は」
「置いてきた。
こっちにはこれないようにしてある」
エレのおかげで増えた、安全な足場を進む。
「その剣でそいつを斬られると、困るんだ」
エレの隣まで行くと、化け物が笑い出す。
「だヨナぁ、おマえは僕と遊ぶんダモんな。
……心配しタンだゼ? ほラ、ニンげんって暗くナるト家に帰ルんだロウ?」
ゆっくりと、化け物がその大きな指で天を指す。クシフとエレと化け物とが向き合うこの場は木の密度が低く、空を容易に眺めることができた。
熟れすぎたリンゴのような空が東から、薄青さを帯びた黒に支配されようとしている。
「人間っテさ、イえに帰らナイと、パぱやママニ怒らレるんダロう?」
聞いて、歯の奥がぎりりと鳴った。
けれども懸命に耐える。
ここで両親の死に溺れてしまってはならない。
「あの化け物の中には、父さんの魂がある。それごと斬られると困る」
「困るったって……どうする気だい?」
「どうにか、あの二つを分けたいんだ」
具体的にどうすればというのは分からない。
けれどもその思いだけは確かだった。
「そウか、クしふ、ダ。お前ハくシフ。クしフはアのおトコのガキだっタモんなぁ。
ワるいこト言ったナ。クシふにハもウ、怒っテくレるパパもまマもイナいんだ」
耐えはついに指先までたどり着き、紅筆が震えた。
筆に馴染んでいた赤が、一滴、大地に落ちる。
それが開始の合図となった。




