第2話 静寂に色をそえる死の化粧師
クシフの瞳には人とは異なる力があった。
魂が見える。いつからだったかははっきりと覚えている。木登りの時からだ。
初めはとても綺麗な色を見たと思った。
後から父に聞いたら、それは人の体からはみ出した魂なのだと語られた。
そして死人の魂は、体がない分まるまると全て見えた。
クシフにはもう一つ力がある。化粧だ。
化粧は大きく分けて二つ。生きている者にするものと、死んだ者にするもの。
クシフが死んだ父から継いだ仕事は後者だったが、それしか出来ないわけではない。
技術面ではそう違いがないからだ。
言ってしまえば、普通の化粧は誰にだって出来る。生き、死に、を分けるのは、その化粧に使われる材料、魂を見る力、その二つだ。
人とは異なる力を持っていることで悩んだ時期もあった。子供の頃はいじめにもあっていた。
けれどもそれは所詮過ぎた話で、今はもうクシフも立派に成人している。
痩せ気味だが身長は高く伸び、普段出さない声はどん底に低くなり、紅筆を握る手は不釣合に大きく骨ばっている。
そして力の使い方も覚えた。
――椅子に座るクシフの傍らには、質素なベッドに寝かせらた死体があった。そしてその向こうには、金の髪を垂らし立っている女が。
クシフよりも五つ程年上の彼女は何も語らず、ただじっと死体を見つめている。半透明の彼女は自分の体を見つめているのだ。
名はマーベラ。二十代半ばにして突然の病に倒れてしまった、哀れな女だった。
病のせいで色が悪く、そして死のためにさらに暗く濁ったマーベラの顔。椅子に座ったまま見下ろして、クシフは手元の照明具に火をつける。
一度火は大きくなり、強すぎる光で死を鮮明に輝かせた。瞼や頬は光に撫でられながらも暗く沈み、光が明るく見せていたのは彼女の肌の整ったキメだけだった。
若い肌が、死の悲しさを煽る。
肌は色だけ明るくし、素肌を殺さないよう透明感を出していこう。そう決め、クシフは仕事道具を机の上に広げ始める。
化粧箱から、白粉、頬紅、眉墨、目縁紅、口紅と出しては並べる。
静寂の中、最後に出した口紅の紅皿がことりと音を立て、マーベラの魂がこちらを向いた。
自分が死んだのだと思い知らされ始めていた彼女だったが、暗い表情をわずかに緩ませる。
愛らしい小箱の白粉や、透明な硝子瓶に入った頬紅の粉を見て楽しんでいるのだろう。
クシフは頷いて、一度だけ笑みを見せた。
マーベラはそれで落ち着いたのだろう。ベッドの枕元に腰を下ろし、横たわる自身の体に触れた。
本来なら重みを受けて沈むはずのベッドにそれはない。さらには彼女が遺体の髪に触れてもさらりとも流れない。
彼女はまた暗い顔をしだした。
今、綺麗にするから。貴女は美しい世界へ行くのだから。
そう心の中で呟き、クシフは腰にベルトのように巻きついている革製の道具入れから刷毛をとる。
指で軽く撫で、たっぷりと白粉を含ませ、まずは自分の手につけて粉の輝きを確かめてから、クシフは彼女の肌に白粉を乗せた。
まずは頬、額と広い部位に刷毛を滑らす。そうして粉の少なくなってきた刷毛を小鼻や目周りにもっていき、続いて鼻筋にすっと走らせる。
ただそれで終わりではなくて、刷毛を立てて鼻を軽く叩いた。白粉の粉が毛穴に入っていき、のっぺりとした印象が軽くなる。
「知ってたか? こうすると化粧持ちが良くなる」
顔上げてマーベラを見ると、彼女は感心する面持ちを見せていた。
もとは鼻の脂で化粧が落ちてしまうのを防ぐ術だったが、塗りすぎて仮面のようになりがちな死人の化粧を生き生きと見せる為に、クシフはよくこの手を使った。
眉は明るい茶色の粉を練り状にしたものを眉筆にとり、描く。彼女の髪色に合わせる為に薄く描いた。眉頭、眉山、眉尻は計算された位置にとり、薄いながらも洗練された眉が出来上がる。
これも彼女は熱心に見ていた。それもそうだろう、彼女の元の眉はいじりすぎてほとんどがなくなっており、眉が上手に描けなかったことを物語っている。
閉じられた瞼に、肌に溶けるような橙色の目縁紅をさす時も、まるで肌の下で血が通っているように頬紅をぼかした時も、紅筆が淡い炎のような赤で口紅を濡らす最後の時も、彼女はクシフの手と彩られていく自分の顔とを見つめ続けていた。
熱心なことだな。
まるでマーベラは母親の料理を見て覚える娘のようだった。
すると、マーベラがクシフの手に触れてきた。毛先に赤をつけたままの紅筆を握ったクシフの手を、持ち上げようとしている。
「なんだ」
問いに彼女は言葉では答えない。手を持ち上げようとしても、クシフの手にその力が働くことはない。
「……これか?」
マーベラが紅筆を指さしたのを見て、クシフは再び訪ねる。すると彼女はその指を自身の唇へと運んだ。動かない体ではなく、魂の方の唇へ。
そうして、指を這わすように左から右へと動かす。
塗れ、というのか。クシフが黙って見ている間、彼女は何度もその動作を繰り返した。
最後にはクシフも根負けする。
「分かった。けれど魂にはきっとこの筆も触れられない。それでも、いいか?」
とにかくやってみろ、彼女がそう言った気がした。
クシフは腕を上げ、彼女の唇の前まで紅筆を運ぶ。
どうせ触れられない、そうは思っていた。魂と形ある紅筆とでは、存在の材料と言おうか……そういったものが違うのだ。
彼女の手が自分の髪も、クシフの腕にも触れられなかったように。
それでも、この紅が彼女の魂を彩れば、良い。
彼女は病が運んできた死によって何もかも奪われた。全ての人間に必ず起こることだと分かってはいても、それはとても悲しく、寂しい。
ならせめてこの色だけでも、マーベラに持たせてやりたかった。
マーベラは目を閉じる。
それがまるで口づけの前振りに見えて、クシフの心臓が早くなった。
悲しいことに、クシフには好いた女がいるものの、いまだそういう関係に運べてはいない。
頭を振って余計な考えを追い出し、クシフはしっかりとマーベラへと向いた。
左手を彼女のあご先に添わせて、右手の紅筆をそっと、彼女の唇に触れさせる。
――奇跡が起こったのだと、クシフから大きな吐息が漏れる。
色を失い、輪郭は保ちつつも朧な存在だったマーベラの唇に、赤が花咲く。それは紅筆に残ったわずかな赤だったが、それが良かった。
強すぎない色は半透明の彼女の存在を否定することなく共存し、彼女が唇を少しだけ動かすと、反射する紅の煌やきがそれにつられて動いた。
「目を、開けてみろ」
言って、手鏡を彼女に向ける。
瞳を開いた彼女はしばし鏡の中を見つめた。そしてゆっくりと、顔を上げる。天井を越え、その向こうの見えない空を見ている。
彼女は天へと旅立つ、決意を固めたのだ。
こうなればもう言葉はいらない。化粧も必要ない。ただクシフは見守るのみ。
どれ程待ったろう。クシフが少し長めの瞬きをしている間に、マーベラは消えていた。
残された遺体だけが美しさに輝き、彼女のスタートラインとなっていた。
ここから歩き出したマーベラの魂は、あの紅に心弾ませながらどれ程の道のりを行くのだろ。
クシフには分からなかったが、きっとそう遠くはないだろうと決めて鏡を引いた。
手首の動きで今度はクシフの顔を映す。目にかからないよう短く切られた黒い猫毛と、その下で黄色と白とを混ぜた肌があった。
自分の色は、黒なのだと思う。髪の毛と、眉と瞳の色だ。星が出始めた空の、ずっと向こうの薄黒い一色の広がり。そんなものに似ていた。
死や静寂を表す黒ではない、何かの合間に挟まれる黒。……そう、まるで本の表紙と本文の間に挟まった黒いページだ。
手早く化粧品を片付け、紅筆は紙で拭き腰へと戻す。最後に、ふっと、照明具に息を吹きかけた。
光源が失われて暗がりがやってくる。
それでも、死の化粧は艶やかさに満ちていた。
……ああ、そういえば。
遺体に背を向けて扉に手をかけた時、クシフは思い出す。
リンゴを採ってこいって、ヴァネッサが言ってたな。
リンゴならこのヤジョヌズの店という店に腐る程あるのに、クシフの家の主ともいえる彼女――ヴァネットサミスは、帰りに森の木から採ってこいとクシフに命じていた。
家計を少しでも楽にする為にタダで手に入る物は必ずタダで手にする、それが彼女の鉄則。
しかし、森にある物でもキノコだけは例外だった。理由はちゃんとある。
忠実に再現するのならば「おねがぁ〜い、リンゴなくなっちゃったぁ」と甘い声で頼まれたのだが、クシフは彼女に逆らえないのだから命令も同然だ。
――涙を枯らせたマーベラの父親から化粧の代金を受け取ると、クシフは町外れの森へと足を進めた。




