第18話 怪獣をやっつける人 2
クシフには少しの時間が必要だった。
現状を把握するために。
急に自分のものとなってしまった記憶を、整理するために。
これからの行動を、定めるために。
ゆっくり、頭をもたげる。
頭についていた土の欠片たちが、はらはらと落ちた。
目に映る世界はもはや暗闇ではない。思い出の家の中でもない。
三人を見つけ、多少頼りない足取りでクシフはそちらへと向かう。
歩きながらも腰に手をやって、道具に破損がないかを確かめる。そして化粧箱を手にしていないことに気づいた。
「クシフ! 早くこっちに!」
エレが手を差し出していた。彼の足が動くことはない。
ああそうか、穴があるからか。
納得して足元を見ると、穴の全容が把握できた。
穴は大きく、三人の数歩先までその外円を広げている。けれども通常の穴ではなく、穴の開いている部分の地面だけが、今のクシフには半透明に見えるのだ。
まるで曇りガラスの上を歩いているようだ。
そしてその下はぼんやりと暗いだけで、あの彼の姿は見えなかった。
穴はまだ完成していない。
クシフにはそれが分かる。
自分に混ざった彼の悪意には、若干の焦りがあった。
彼はたくさんの土を掘り上げてあそこまで来たのだが、それに抵抗する最後の砦が、今クシフが踏みしめている大地だ。
しかし中身を抜かれ空洞ができあがっていて、そのうち大地は裂けるだろう。
まだ、もう少しだけ、時間があるな。
それが具体的に何分なのか、何秒なのか、それは分からない。
とにかくその間にビッターラビィとヴァネットサミスをここから遠ざける必要がある。
決意を計画とが固められつつあった。
悟られないように、クシフは無表情を装った。
普段から無口だ、無表情だと言われる自分が意識して作る無表情とは、どんなものだろう。
こんな状況でさえなければ、腰に下げた鏡で見てみたいものだ。
「クシフ……お前、大丈夫なのか? 肩は……」
ビッターラビィの声だ。たった数分離れていただけなのに、ひどく懐かしい気がした。
「大丈夫だ。ここを」
離れよう。そう続けようとしたのに体のバランスが崩れ、クシフは前へ倒れかけた。
「おいおいおい、何が大丈夫なんだよ。ったく、でたらめ言うな」
いつもでたらめばかり言ってるビッターラビィがクシフを支える。
彼の肩にクシフの顔が乗って、その後ろにいたヴァネットサミスと目があった。
彼女の目は赤みを帯びていた。しかしすぐに笑顔を見せてくれる。
「もう、帰ろうよぉ」
もうエレの口から聞くことは聞いたのだ、だからもう何もする必要はないのだ。
彼女はそう言いたいようだった。
けれどもエレが語った内容が寸分違わぬ事実ではないことを、クシフは知っている。
やらなければならないことが、ある。
ヴァネットサミスが持っていてくれた化粧箱を受け取り、クシフは自身の足でしっかり立つ。
ビッターラビィはまだ心配そうに肩を貸そうとしていたが、断った。
「無理すんなよ。
……しかし何がどうなってんだ?
ちゃんと説明しろよ、俺たちはさっぱりだ」
「歩きながら話す」
クシフは化粧箱を抱え、中身が破損していないかを確かめる。
白粉の入った四角い陶器も、頬紅や目縁紅の小瓶も、壊れやすい紅皿までも無傷だったのは、奇跡的だった。
もしかしたら、これから必要になるから必然的に残ったのだろうか。そんなことを考えてしまう。
必然も、案外悪いものじゃないな。
必然の恋人の件を思い出し、クシフは小さく笑った。
「君はあの穴の中で何を見た? 君の身に一体何が起こった?」
「順番に話す」
エレの問いには答えず、来た道へと進路をとる。
ビッターラビィが呼び止めたが、クシフは構わず歩き続けた。少し離れてしまったのを駆け足で取り戻し、ビッターラビィとヴァネットサミスがクシフの横へと並んだ。
エレは一人後ろを歩く。
おそらく、見つけた穴をどうこうするよりも、クシフたちを無事に森の外へと出すことを選んだのだろう。
……この時、クシフはあることを思いついた。
「俺は、魂を少し食われた」
今度は藪を飛び越えたりせず、きちんと迂回して道へと戻る。
「食われたって、狼にか」
「ああ」
「えぇ〜? じゃあクシフの心には穴が開いちゃったのぉ?
あ、分かったぁ、その隙間をぉ私の愛でぇ埋めてほしいんでしょぉ」
いつの間にかクシフの腕を絡めとったヴァネットサミス。
期待にそえない答えを出して、彼女は不機嫌に騒ぎ出さないだろうか。
おずおずとクシフは小さく言葉を出す。
「もう、埋まったんだ」
「ちょっとぉぉ! 何よそれぇ、どこの女よ!」
「いや、あの」
「まさか巨乳っ!? そうなんでしょ! 私に足りないのってそれだけだもの!
でもねクシフ、おっきいおっぱいなんか重いだけなの! 年とったら垂れるのよ! おばあちゃんになったらね、首から下げてるタオルなのかおっぱいなのか見分けつかなくなるのよぉ?
その点私だったら老後のスタイルも安心だもの! ね、ね、そうでしょ?」
「おいおい、ちゃんとクシフの話を聞け。
そもそもだ、喋りに喋ってしまうのは俺の役目だぞ。――偉大なる子狸ポルラガマヌヌはかく語りき。足はなぜ足であるのか、手はなぜ手であるのか、それを考えろ。
つまりだ、適材適所。それぞれにはそれぞれの役割がある。
ヴァネットサミスが俺以上に口を開いたら、俺は一体どうすればいい」
それだ。
今はクシフが話をしなければならないのに、こう二人に間髪入れず口を開かれては、まいってしまう。
ビッターラビィの呼吸の隙をつき、なんとかクシフは口を挟む。
「俺の魂の喪失を埋めたのは、闇だったんだ」
ぱきり、音がした。
エレが小枝を踏んだ音だった。
彼は一人、ビッターラビィともヴァネットサミスとも違う表情をしている。
おそらく、今のクシフの言葉で彼だけが事態を理解した。
「闇? クシフはますます暗くなったのか?」
ずいぶんと失礼なことを言われたが、反論していては話がずれる。
クシフは大きく息を吸い、慣れない長話に備える。
「俺は穴に落ちた。魂だけが落ちる穴。
あいつが掘ったとか言ってたが、とにかく俺の魂はそれに落ちたんだ」
「あいつ?」
訊ねる口調ではあったが、エレの声には確信があった。
「きっと、あいつがエレの探し物だろ? 穴の中にいた黒い化け物だ。そいつが五年前に、父さんの魂を食ったんだ」
後ろからついてきていた足音が、止まる。
「それじゃあ、もうすぐそいつは出てくる……」
呟きとエレが走りだすのは、同時だった。
ヴァネットサミスが彼を呼んだが、止まることはない。
重力のありそうな剣をものともせず、その動きはクシフらに追いつけるような速度ではなかった。
「おい、一人で行かせていいのか?」
「あれが、エレの仕事だからな」
慌てたビッターラビィが追いかけないのは、彼がここでは一人で動けないからだ。
最後のリンゴの木は近いが、まだ越えてはいない。
クシフはヴァネットサミスを引いて歩き出す。
「話を続けよう。
父さんが一人だけ傷を負っていたのは、あの化け物と戦ったからだ。
他の五人が無傷で死んでいたのは、化け物から逃げる途中で穴に落ちたから。俺のように、だ。
穴に落ちれば体はその場に倒れ、魂は穴の底に沈む。
……父さんは、母さんたちが食われると思った。たから一人で戦った」
ヴァネットサミスが、強くクシフの腕を握る。
「分かるんだ、俺には。
俺の魂の中に入ってきたのは、あの化け物と、食われた父さんの魂とが、混ざったものだったから……」
化け物の黒に溶けていく父の姿を思い出すと、心に衝動が突き上がってくる。
今にでも二人に背を向けて走っていってしまいたくなった。
それを制したのはヴァネットサミスだった。
彼女がもう一度、クシフの腕を握る。
その力と体温が、化け物の姿を淡い白で覆っていく。まるで、彼女がクシフの魂の中にその白い手を入れて、悪いものを消してくれるようだった。
――もう、ずいぶんと歩いた。
長いツタを持った木を見つけ、クシフは足を止める。
このあたりなら、いいか。
最後のリンゴの木は、まだ越えてはいない。
なぁ父さん。
小さい頃から、二人は俺を守って
強くしてくれたよ。
今度は俺が守ってみても、いいかな?




