第16話 欠けた魂 3
クシフは呼ばれているような気がしてならなかった。
それは声ではない。けれども、呼ばれている。
足は勝手に動いていた。
犬が主人に呼ばれて駆け出すように。
ヴァネットサミスの声が後ろに聞こえる。その声はどんどん離れていく。
ならば今動けるこの力は彼女のものではない。
何か、だ。何かに呼ばれている。
そうじゃない、帰りたい、んだ。
無性にそう思った時、クシフは藪を飛び越えていた。そして急に重力に引かれる感覚を覚え、視界は暗転する。
ふいに、また葬式の光景が脳裏に浮かぶ。
あの時、おそらくショックからだろう、クシフの魂を見る力はほとんど機能しなくなっていた。
朧気なモヤが三つ、その場にいた。
一つは自分のそばに。
あとの二つはヴァネットサミスのそばに。
おそらく母と、ヴァネットサミスの両親だとぼんやり考える。
姿形のはっきりしない微かなモヤだったから、他の三人は自分に見えていないだけなのだろうと思っていた。
モヤは葬式が終わると消えていた。死を自覚していた。
未熟な自分は、何もできずに大切な人たちを見送ってしまった……。
クシフは目を開ける。
背中に湿った土の感触があった。自分は仰向けに倒れていた。
土には振動があった。
小さな地震のような、下から誰かが地面を掘り上がってくるような、そんな。
そして視線のずっと先――上には、水面に浮かぶよう自分が倒れていた。
あちらはうつ伏せで目を開けたまま、人形のように動かない。
ああ、俺って、父さんに似てきたな。
鏡の住人のようにそっくりな人形は、父の面影の塊でもあった。
そんなものを見て父を思い出さないわけがない。思い出せば思い出すだけ、背中似伝わる振動は大きくなっていく気がした。
その振動が気になったクシフは身を起こす。
辺りは夜のように暗かった。
そして月明かりに似た淡い光が、クシフ人形がある頭上から降り注いでくる。
クシフはそれを頼りに歩いていった。
暗闇の向こうに、何か動くものを見つけたから。その動きと振動は呼応していた。
「誰だ?」
足を止め、問いを投げかけたのは、返事が返ってくると思えたからだ。
そして理性のなせる業でもあった。突貫工事が済んで埋められたクシフの魂の一部が、帰りたいと叫びを強めた。だがその同じ魂が「そちらへは行くな」と警鐘を鳴らす。
意見の異なる二人の魂がクシフの中にいるようだった。
「誰か、いるんだろ?」
再度声をかける。
すると暗闇の中、より黒いものが不可思議な動きで上背を高くした。
目をこらすと、その黒いものの足元には穴らしきものがあり、彼はそこから這い出てきたのだと分かった。
……どうして、俺はあれが「彼」だと思った?
クシフの足が歩幅一つ分下がる。
視覚では、目にしている黒いものが具体的になんなのか定かではない。
それなのに、自分は彼だと思った。男なのだと思った。
いや、知っているんだ。俺はあれが……何か、知っている。
それは魂に刻まれた記憶。
クシフのではない。ねじ込まれた異質な魂の。
「僕がダれかッテ?」
とたんにクシフの魂が騒ぎ始めた。
あれに帰りたい!
あれに近づいてはならない!
二つの意思がクシフの心を乱す。
「そレは僕のナマえを聞いテンのカ? ダトシたら、残念ナガらコたエハなイぜ」
その声に、クシフは聞き覚えがあった。
口調こそはまったく違うものの、これは……父の声。
父の声をしたものが動き、クシフへと近寄ってくる。
弱い光に照らされ、その姿があらわとなる。
顔以外の全身が、漆黒だった。
大きさは大人二人分縦に並べたより大きい。巨大な黒い化け物だ。
その頂点にある顔の造形を目にし、クシフは言葉をなくす。
「コノ匂い、そウか、オマえが粘土入りノヒき肉か」
化け物が意味のわからぬことを言った口元を引き上げた。顔に似合わぬ、歪んだ笑み。
どうしてこんなことが……
「とう、さん? どうして……」
化け物に張りついていた顔は、父のもの。
まっすぐな鼻筋、本来なら柔らかな言葉を発する唇、クシフより健康的な肌色。
けれど、瞳だけが違うのだ。
黒いことは黒いが、その色の質が違う。
「父サん? そレがニンげンの挨拶カ?」
言いながら、一歩、また一歩と、父の顔をした化け物は近づいてきた。
その度にクシフの魂が例の二つの叫びを上げる。一体この叫びのどちらが正解なのだろう。
自分はあの父の顔をした到底父とは思えないものに抱きつきでもして、再会を喜ぶべきなのか。
それとも、あれを化け物とみなして逃げるべきなのか。
「ああ、アッちにイる女がクイ物で、眼鏡がオモしロそうナ玩具ダな」
その言葉で我に返る。
いつの間にか、彼の視線はより上へと向けられていた。そこにはクシフの人形が浮かんだままになっていて、それと――。
「ヴァネッサ、ビビィ……」
クシフの人形と少し離れた場所に、彼らがいた。
二人は焦った表情で近づこうとしていたが、それをエレが制している。
彼らの足元は見えなかった。まるで崖上に立つように、クシフの位置からは腰から上だけが見える。
そしてそれは例えにとどまらず、事実でもあった。
クシフは深い穴の中にいて、その穴の淵は彼らのすぐそば。穴には透明な蓋があり、クシフの人形はその上に横たわっている。
そんな状況なのだと、クシフは理解した。
「逃げろっ! ヴァネッサ!」
頭上へと吠えたが、三人の誰一人この声に気づいてくれない。慌てた様子でエレが何かを言っていた。
上の三人とクシフの人形、そして下にいるクシフ本人とを見比べ、父の顔をした化け物は一人納得した表情を浮かべる。
「ナンだ、お前はたまシイと体がぶんリしたノか。
……あア、ナるほど、ボくの掘った穴のせイカ。穴に落ちタンダな。しカシまァ、おマエに死なれルト楽しくナさソウだし。
知っテるか? カラだと魂が離レて時カンが経つト……ほントに死んジマうんだゼ?」
彼の言っていることが事実だとしたら、上にいる自分そっくりの人形はクシフの体だというのか。
そして、このままだと……。
「安心シロよ、ボく、オ前にはモウ少し生キテいてモらいタイんでナ」
言い終わるより早く、黒く巨大な手がクシフを握りしめた。そのまま勢い良く放り投げる。
三人と、目を開けたまま無表情な自分が、どんどん近づいてくる。
ぶつかる。そう目を閉じた瞬間、クシフは知らない映像を見た。
ビッターラビィの両親も、ヴァネットサミスの両親も、クシフの母親も、魂ばかりが穴に落ちて体が動かない。
魂たちは思いこみの重力に縛られ、体へと上がれない。そしてその体は命を失い、人々に発見される。
その時にはようやく死を自覚し、重力を忘れ、五人の魂はそれぞれの子供たちの元へと帰る。
エレの語った五年前の結末は、若干異なっていたのだ。
――なら。
クシフは目を開ける。
一人だけぼろぼろの体で、魂も見当たらなかった自分の父親は、どうなったのだろう。
その答えはすでに言葉の中にみつけていた。
エレもすでに語っていた。
まつ毛が触れるのではという程近づいた、もう一人の自分の瞳が「それで正解なのだ」と後押しをする。
黒い黒い瞳だった。
全ての色を拒否してできたのが彼のあの色だとしたら、こちらは全ての色を混ぜてこうなった色だった。
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「なんで止めるんだエレ!」
進もうとする自分の体を、エレは腕を伸ばして制していた。
「あそこには穴が開いてる、クシフは落ちたんだ。今君たちが行ったら、クシフのように倒れるだけだ!」
「じゃあどうするのっ? クシフあのままにして大丈夫なのっ!?」
ヴァネットサミスが指す方向にはクシフがいた。
木々の密集が少なくなり開かれた空間。その地面にクシフは倒れていて、そのままずっと動いてはいない。呼吸をしているかさえ疑わしかった。
「こうなったらもう、祈るしかないんだ。
クシフの魂が自力で穴を登ってこれるように……それしか……」
祈るだけなど冗談ではなかった。
ビッターラビィの目に穴など見えてはいない。眼鏡をかけても外してもどこにも見えないのだ。そんなものを信じてクシフを助けに行かないなどと、そんな馬鹿な話があるか。
「俺は行くぞ! あいにく祈る神様なんていないからな!
偉大なる子狸ポルラガマヌヌはかく語りき。ダチは自分で救ってみろ! ってなあ!」
渾身の力でエレを突き飛ばし、ビッターラビィは救助の一歩を踏み出す。
しかし二歩目は出なかった。ヴァネットサミスが止めたのだ。
「あれ、見て」
あれ、とはどちらのことだったのだろう。
クシフの腕が、動いたことだろうか。
それとも、クシフの左肩を、黒い何かが這い回っていたことだろうか。




