第15話 欠けた魂 2
「――消えろ!」
エレの低い声だった。
狼の頭の先から顎の下へと、剣は抜けていた。
狼の瞳から意思が消え、魂の形は揺らいだ。
色の薄い毛が一本一本と風に流されていき、クシフの魂を腹に抱えたまま狼は空気に溶けていく。
ああ、もうこれで、俺の魂は戻らない。
桶の水を川に流してしまったようでもあった。周囲に完全に馴染んでしまった狼とクシフの魂は、どんなにかき集めようとしてもそれはできない。
懸命に背中の赤に舌を伸ばしていた一匹も、エレは切り捨てる。
この狼の魂も四散し消えた。
「君たちがにぎやかで間に合ったよ。
――大丈夫かいクシフ」
エレの手がクシフを立たせようと肩に回される。
やはり肉体的な痛みはなかった。
魂だけが痛みに震える。
何がなくなってしまったのか、自分の魂のどの部分が消えてしまったのか、クシフの内側では必死の捜索がされていた。
「クシフ、大丈夫? つらいの?」
ヴァネットサミスがクシフを支えるように脇に立つ。
自分は何かを答えた気もしたが、心がそれを知覚できない。
魂が欠け、体とのバランスが危うくなっているのが分かった。
そしてだんだんと、自分の存在に重力がなくなっていくのを感じる。浮かび上がってしまいそうな気さえした。
このままでは……。
俺は死ぬ……? 天へ昇るのか?
ヴァネットサミスに支えられて立つクシフは、天を仰ぐ。木々の葉の間に見える空は澄んでいた。
どこまでも美しく、何者も拒まない。
だから、さあ、こちらへおいで。
そう呼ばれてさえいるようだった。
不安定な自分の魂はそれを望んでいるのだろうか。片手が上がった。
天をつかもうと、この欠けた魂を空の青で埋めてもらおうと。
「しっかりしろクシフ」
ビッターラビィの大きな手が、クシフの手をつかむ。
しっかりしろ、彼は繰り返す。
「お前はどこもケガしてない。大丈夫だ。」
茶色の瞳が見つめてくる。
大丈夫だと繰り返される度、クシフの浮遊感は収まっていった。体の感覚も確かなものとなる。
そう、だ。俺はまだ生きてる。
大きく息を吸い、落ち着こうとした。
だが喪失感はなくならない。自分の魂の何が失われてたのか、それがいまだに判明しない。
「――ここは危険だ。
三人とも早く森の外に。いいね」
エレが強い口調で言った。
「えぇ〜? エレさんはぁ?」
「言っただろう。オレには探し物があるんだよ」
クシフはこの時、新たな違和感を覚えた。エレに対してではない。
「悪いがな、俺たちにも探し物ができたんだ。
そしてそれはお前が持っている。
聞かせてもらおうか、お前は何を探してる?
五年前……何をしにヤジョヌズに来た」
追求はエレへと向けられる。
彼は一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに平静を作りあげた。そしてクシフを指す。
「そんな状態のクシフを放っておいて、立ち話かい?」
「俺も、聞きたい」
無理矢理と顔を上げてそうは言ったものの、クシフの体内に異変は起こっていた。
それまでとは、真逆の異変が。
「……わかったよ。確かにオレは君たちに話さなければならない。
いや……謝らないと、いけない」
近くの木の根をみて、彼は「座ろう」とうながした。
クシフはヴァネットサミスとビッターラビィに両側を支えられ、そちらへと移動する。
一人エレだけがその前を歩く。彼はこの森でクシフらのように動きに困ってはいないようだ。
「五年前、オレがもっと早くここに来ていれば、君たちの両親は死なずに済んだ。
本当に……申し訳ない」
木の根に座る四人に、沈黙が。
そしてクシフの指先が震える。
何かが、自分の中に入りこもうとしていた。
それこそが、感じていた異変。魂の喪失感を突貫工事で埋めるように、その何かは無理矢理とクシフを侵す。
狼に牙を立てられた時とは違って、声は出したくても出せなかった。
ただクシフは体を抱いて耐えるしかない。
この事態に耐え終わった後、自分はどこか変わってしまうのではないか、そう恐れもした。
だが入ってくる何かを拒んだら、今度こそ死んでしまうような気がした。
「五年前、君たちのご両親が死んでしまったのは……この森に穴が開いてしまったから。
そしてその穴は、この世界と地の底にある世界を繋げる穴だった」
エレは、語り続ける。
――――――――――――――――――
ビッターラビィはエレの口から出てくる言葉に耳を疑った。
穴だ? この世界と地の底の世界?
どうにか想像してみようともしたが、モグラの巣穴程度しか想像できなかった。
そして思い出す。
ビッターラビィと彼がロバ車に揺られていた時の言葉を。
(……穴が、開いてる。小さいから大丈夫か)
自分には目にすることもできなかったそれが、今語られている穴だったのだろうか。
「大きな穴からは、この世界の生き物ではない存在が出てくる。
それを倒したり、その穴が再び開かないように封じて回るのが、オレと師匠の旅だった。
――五年前、大きな穴が開く兆しを見つけて、オレと師匠はヤジョヌズに向かった」
エレは懐から地図を取り出す。
それは古い世界地図。けれども黒いシミが、いたるところに点々とあった。ヤジョヌズのシミはひときわ大きかった。
「けど、道中で師匠が死んでしまってね。病にかかって、年だったからそのまま……
死ぬ前に師匠は言ったよ。
さっさとヤジョヌズに行け、ってね。
そしてこの剣と地図を継いだ。本当だったら、すぐにオレはここへと、向かわなければならなかった」
彼の手に握られた地図の端に、皺が寄る。
「オレは怖かったんだよ。一人では、何もできない気がした。
怯えて、そしてやっと決心してヤジョヌズに着くと、葬式をやっていた。
町の人から聞いて、それが森で死んだ人たちの葬式だと知ったよ。
そこでは一人の女の子が泣くのを耐えていた。一人の男の子が何も感じなくなってしまったような瞳で、ぼんやりとしていた。
急いで森へ行くと、一人の男の子が泣いていた」
そこでヴァネットサミスと目が合ってしまい、ビッターラビィは慌てて目をそらす。
クシフはというと、一人うつむいたまま自身の肩を抱いていた。顔色は非常に悪い。
ビッターラビィには見えぬ狼に襲われたようだが、クシフに怪我らしきものは見当たらなかった。
それでも、あの時クシフが上げた尋常ではない叫びが心に甦る。
クシフに、一体何が起こったというのか。
「森の穴は、すでに小さくなっていた。この森の土にある再生の力が、そうさせたんだ。
だけどそれだけでは不安で、オレはさらに封じを施した。
でもきっと、オレの力じゃ十分じゃなかったんだね……今、穴は再び開かれようとしている」
エレは地図の黒いシミに目を落としていた。
「ねぇ、その地図ってなんなのぉ?」
「この地図はね、穴を予見する。穴が開きそうになると、黒点が現れるのさ。
見ての通り、黒点は世界中にある。
それでもオレが一番にヤジョヌズに来たのは、君たちのことがあったからだ。君たちにもうあんな顔はさせたくなかった。
……これはただのオレのエゴだけど、こんな方法でしか、償えないと思った」
「で? どうして穴が開いたからといって親父たちが死ななきゃならなかったんだ。
その世界を繋ぐとかいう穴は、悪質な落とし穴か何かか?」
クシフの肩に手を回し、ビッターラビィは彼を自分へと引き寄せる。
大丈夫かと聞いても「ああ」という小さな返事が返ってきただけだった。
無口の反動か普段はやたらと意思を映すクシフの瞳が、ここにはない何かを見ているような気がしてならなかった。
「穴からは、この世界の生き物ではない存在が出てくる。君たちの両親を死に追いやったのは、きっとそれだ。
……出てくる前にオレが封じなければならなかったもの。出てきてしまったら、オレが倒さなければならなかったもの。
今、それが穴を開け出てこようとしている。
それが、オレの探し物」
その時、風の流れが変わる。
ビッターラビィたちを弱く横に撫でていた風が、藪の向こうへと強く吹き始めた。
「――たい」
藪が揺れ、小さな葉音が無数に重なる。
そんな音があったから、ビッターラビィはクシフが発した言葉を上手く聞き取れなかった。
「クシフ?」
それまでうつむいていた彼は顔を上げ、藪の向こうへと力ない瞳を向けている。
そして、彼は立ち上がった。
背の高いクシフは、ビッターラビィが座っているせいかいつもより大きく見え、それなのに希薄な存在に思えた。
「帰り……たい、んだ」
その弱い呟きは、家に帰りたいという意味だと、ビッターラビィは思いこんだ。
おそらくエレもヴァネットサミスもそう思ったに違いなかった。
クシフが、藪へと向かって、駆け出すまでは。




