第14話 欠けた魂 1
クシフはある気配を感じていた。
その気配は三つ。
動いてはいない。藪の向こうからこちらをうかがっていた。
「どうしたクシフ」
ビッターラビィは藪の奥の気配に気づかない。
クシフは自分達を狙っているのが何かの魂だと直感する。
そしてそれは正しかった。
「狼だ、魂だけのやつが三匹」
藪を揺らさず、三つの気配は前へと現れた。
三匹の狼。薄れた存在感のない色の毛並み、体の線ばかりを覚えすぎている魂の形。
昨日クシフが対峙した狼と、状況が酷似していた。
だが相違もある。
あの気高い狼の長は初めての恐れから牙を向いていたが、この三匹は違うようだった。
口元からはよだれを流し、飢えを感じる。
狩りをするつもりだ。
だが果たして、これが死んでから初めての狩りだろうか。
魂のみで他を襲い続け、しかし魂であるが故に食事ができないでいる。そんな様子だった。
飢えが最高潮まで達した狂気をちらつかせている。
このままじゃ、ヤバいな。
クシフは紅筆を一本引き抜く。
逃げようと背を向ければ、それは狩の開始の合図となる。そうなれば最後だ。
どうにかして三匹の魂全てを天へと送ってやれればいいのだが、できるだろうか。
狼を睨みつけたまま、クシフは化粧箱から紅皿を取り出す。
三匹の元の色が分からない今、昨日と同じ手法はとれなかった。
それよりも飢えを満たしてやるのが得策だろう。紅の赤で血の満足感を得るのではないだろうか。
そこまで思考を巡らせ、しかし大工の親父の娘さんのために選んだこの口紅に、赤みが足りないことを思い出す。
「クシフ、なにを」
ビッターラビィの言葉は珍しく途中で止まった。
クシフが自身の指を噛みちぎったからだ。
傷口から滴るものを紅皿に混ぜる。
これなら、やれる。
クシフは確信する。
狼の目の動きだけで十分だった。三対の目は生前の肉食の輝きを取り戻し、少し下方へと動く。
そこにはクシフの指と紅。
あきらかに赤に反応していた。
ついに一匹が先陣をきって跳躍する。その姿に、二匹も続いた。
クシフも地を蹴り、紅筆を振り上げようとした瞬間、重要なことを思い出す。
ヴァネットサミスから離れてしまっては、動けないのだ。
かといって二人をそばにつけたまま狼たちに向かうのか……そんなことできるはずもない。
くそ、俺は馬鹿か!
焦りが一挙に押し寄せる。
どうしようかと考える時間はない。
肘でヴァネットサミスを突き飛ばし、その勢いでビッターラビィをも動かし、自分は狼へと突撃する。
一匹目の爪をぎりぎりまで見つめ、左肩を引いてその一撃をなんとかかわす。
反動で出た右手を振り下ろし、赤々とした紅が狼の背中を撫でた。
そして身を低くする。
残り二匹はクシフの頭上を過ぎていく。
ここまでは動けた。が、突き飛ばした二人とは、ついに手の届かない距離となる。
「もぉ、クシフったら何するのぉ。いくら私の手を握って我慢できなくなったってぇ、今のは激しすぎぃ!」
ビッターラビィの上に倒れこんだヴァネットサミスはまだ状況を理解していない。
幸いなのは、ビッターラビィが危険な状況であると察してくれたことだ。
すぐにヴァネットサミスの下から這い出て立ち上り、彼女を両腕で抱き上げて叫ぶ。
「クシフ大丈夫かっ! 狼は今どこにいる!」
「いや〜ん、今度はお姫様だっこぉ? ホントに今日は二人して積極的なんだからぁ!」
「一匹は俺の正面、あと二匹はその数歩先だ」
クシフの目の前の狼は、背中の赤を口にしようと奮闘しており、しばらくは害がなさそうだった。
問題は残り二匹。
自分たちにも赤いご褒美をくれと、クシフににじり寄ろうとしている。
「今そっちに行く!」
動けず片膝をついて睨むしかないクシフに、ビッターラビィは声を張り上げた。その声量で狼を威圧しようとするように。
「駄目だ来るな」
いくらビッターラビィがクシフより力があっても、彼には狼が見えていない。
「ヴァネッサを連れて逃げろ!」
「ふざけるなっ、お前はどうなる!」
「俺は大丈夫だ」
「何がどう大丈夫だ! 具体的に説明してみろ!」
「そんな暇はない!」
「やめてぇぇえ! 私のために争わないでぇ!」
森の中に自分勝手な声がいくつも響く。
そしてビッターラビィへと一匹が走り出す。
当然見えていない彼はなんの反応もしない。
「やめろ! こっちだ!」
慌てて大声で叫ぶと、クシフを狙い続けていた一匹がこちらへ飛びかかってくる。
自分へと迫る脅威に目を見開いたが、その視界の隅ではビッターラビィのすぐそばへと狼の爪が伸びていた。
「避けろビビィ!」
クシフは覚悟した。
彼らの悲鳴が響くのを。
自分にやってくる痛みを。
動けないクシフは、ビッターラビィらを切り裂こうとしていた狼の背後に、影を見た。
「エ、レ……」
太陽が森の葉たちの隙間から強く差しこみ、その姿が鮮明になった。
掲げた剣の刃が光を弾く。その光はクシフの目を突いた。
迫る狼も何もかもが白光に消えて、音だけが耳に届く。
空気と、薄紙とを裂くような鋭い音。
エレの息づかい。
――ビッターラビィの咆哮。
「クシフ!」
状況を把握するより早く、狼の顎が左肩にあった。
そして、言語とは似ても似つかぬものがクシフの喉から湧き上がる。
着地しようとする狼の力に負け、クシフは後ろへ倒れた。
破かれる感触が肩に走り、今までに体験したことのない痛みが、神経を伝わって脳を揺さぶる。
狼の魂はすでにクシフを離れていた。上顎と下顎とを動かしている。
食うな……俺の魂を……食わないでくれ。
肩からは出血もなく、衣服の破れもない。
それでも何かが自分から失われたのだ。何かが自分から足りなくなってしまった。
狼の魂がクシフを見下ろし、喉を上下させた。
奪われたクシフの魂の一部が、死してなお消化を行おうとする狼の胃袋へと、落ちていく。
クシフは目を見開いたまま絶叫した。




