第13話 禁じられた地に封じられる彼 3
何かの悪意だと思った。
クシフとビッターラビィの体を押さえつけ、自分が無効化したものは、それだ、と。
ヴァネットサミスは男二人の間に挟まれご機嫌な表情を見せながら、考え続ける。
なら、誰の悪意であるのか。
最後のリンゴの木を超えてしまったこの場所に、他の人間がいるはずもない。
いるのは、自分とクシフとビッターラビィ、そしてエレ。
この四人にここまでの悪意が出せるとは思えなかった。
悪意とは感情の欠片、つまりはその体の内側にあるべきもの。
はみ出すとしたら、言葉や行動、態度となる程度なのだ。
ヴァネットサミスにはそれが分かる。
悪意を遮断する力に守られて、様々な人間の悪意が飛びかうのを見てきたから。
喫茶店で語られる女たちの陰口噂話。
もっと昔のことを言えば、クシフに投げられた無数の石。自分が少年たちに投げつけた石もそうだろう。
なぁ〜んか、嫌な予感がするのよねぇ。
森は、意味もなく飛び出る偉大なる子狸の話以外、静かなものだった。
それでも嫌な予感がするのは、やはり周囲に漂う悪意のせい。
三人を押しつぶしてしまおうと……それどころか、なぶり殺そうとするかのような悪意。
こんな悪意、人間に出せるだろうか。
悪意はヴァネットサミスがひと睨みすると後ろへ下がるような気配を見せた。
しかし気を緩めるとまた近づいてくる。
足を止めて二人を連れ帰ってしまおうと、何度も思った。
けれども、ヴァネットサミスも答えを知りたかった。
ビッターラビィは今を逃せば答えがなくなってしまうのだと言った。
それはエレがいなくなってしまうことと同義である気がしてならない。
こんな悪意に満ちる森では、何が起こってもおかしくない。
五年前の遺体が六つ、ヴァネットサミスの脳裏に甦る。
とたんに怖いという感情が芽生えたが、ヴァネットサミスは前を見ることでそれに耐えた。
後ろを向けば、目を閉じてしまえば、過去がある。
過去に怯え、悲しむのは、夜一人で泣いている時だけで十分だ。
「――止まれ」
短く、低い声がした。クシフだ。
ゆっくりとヴァネットサミスから腕を外し、正面を睨みつけている。
そこには藪があった。
嫌な予感はどんどん膨らんでくる。
何かが、再現されようとしている。
それは五年前とまるっきり同じ出来事ではないのかもしれない。
それでも、根源は同じなのだと、ヴァネットサミスは感じた。
――――――――――――――――――
リンゴの木を越えてみようと言ったのは、ヴァネットサミスの父だった。
彼は、レイデッドがよくその場に足を踏み入れていたことを知っていた。
レイデッド自身も、かなり奥へ行かなければ危険がないことを体験していた。
だから少しなら、と了解する。
今回は大人だけなので、多少のことには対処できると過信してしまった。
――そして今、レイデッドは腰から紅筆をとり、走っていた。
眼前には見たこともない黒い化け物。
敵うとは到底思えなかった。自分の手の中にあるのは剣でも斧でもない、何かを傷つけることとは程遠い、化粧道具。
それでもレイデッドは向かった。
突然倒れてしまった五人を背に。
だから、逃げることはできなかった。五人を抱えて動くことは不可能で、順々に運べば後の者が食われてしまう。
あの化け物はさっきこう呟いたのだ。
食べてみよう、と。
自分を待つ化け物は漆黒の体をしている。
その輪郭は人のようであったが、大きさは大人二人分以上はあった。
顔であろう位置も黒しかない。
あきらかに人でも動物でもない。
何よりあれは地面から影が隆起するかの如く、出現したのだ。
レイデッドは腰から、赤と茶との中間の色を持つ固形の口紅を出す。
走りながら筆に舐めとらせて、それによって口紅の美しい形が崩れてしまうのも気にしない。
化け物が身を屈めて腕を振る。
横薙ぎにレイデッドを仕留めようとする動きを飛んで交わし、そして不格好にその腕の上に着地した。
だがすぐにレイデッドは転がり落ちてしまう。
紅筆だけはしっかりと握って、落ちながらも黒い腕に触れさせた。
目まぐるしく反転する視界。
黒に一筋の赤茶色が引かれたのは、けれども見た。
地面に背中を打つ衝撃に息を詰まらせると、咆哮が降ってきた。
仰向けに倒れたレイデッドの上で、化け物が体を歪め、腕を振り回していた。
なぜ紅がついただけであれだけ苦しそうに暴れるのだろう。
自分から紅筆を武器として出しておいて、そんなことをレイデッドは考えていた。
そして、思い出す。この紅は死人用なのだ。
昨夜作ったもので、棚に置こうとしていて妻に呼ばれ、そのまま腰の道具入れに入れてしまっていたのだ。
いつ仕事に呼ばれてもいいようにと、レイデッドは常に腰の道具入れは外さない。
それが今役立っている。
こいつは死人も同然な存在、なのか。
レイデッドはそう理解する。
触れられることからも、この化け物は非常に強い魂のようなものなのだ。
そしてあの異常に黒い色は、今までに見たこともない特殊なものであると。
どのように言い表そうか……全てを廃した色、だろうか。
例えば、自分や息子の黒は、子供が様々な絵の具でイタズラ書きしたような色なのだ。色が混ざりすぎた結末の、黒。
けれどもこの化け物の黒は、一つの絵の具さえも照らす光さえも与えられなかった子供のキャンバスのよう。
何もないが故の、黒。
ならば色を与え続けようとレイデッドは思う。
身にまとったことのない色で攻め続けられれば、あの化け物はきっと困惑する。
倒すことはできなくとも、追い払うことはできるかもしれない。
距離をとり、再び紅を筆につけようとした瞬間。レイデッドの腹部に重い衝撃が走る。
蹴り上げられたのだと気づいた時には足が地を離れており、肋骨の折れた音がした。
その後レイデッドの足はつかまれ、化け物を背に逆さに吊るされた。
激痛と恐怖の中で、レイデッドは見たくない魂を見てしまった。
地面に穴が開いていて、その底に五人の魂がいる。
妻が泣き叫びながらこちらを見ていた。
ビッターラビィとヴァネットサミスの父が穴を這い上がろうと懸命に土をつかんでいる。
彼らの妻は……ああ、心臓が止まってしまったのか。魂が薄くなっていく、もう時間がない。
化け物は笑いながらレイデッドを振り回した。
そして化け物の頭の位置まで上げられ、空になったソース瓶から最後の一滴をしぼり出すように振られた。
自分の口から出たものがソースだったら、どんなに愉快だっただろう。
人体の構造上、仕方なく出てきたのは、血。
頬を伝い流れてきた血で、目が覆われる。
赤くぼやけた視界に、いるはずのない姿が見えた。
……ク、シフ?
ここ最近小さな反抗期を表し始めていた息子の姿。けれどもそれはレイデッドの肩までしかない身長の彼ではなく、もっと大人びていた。
レイデッドは笑った。
ソースが口から出てくるよりも愉快なことがあったから。
私は、そんなカッコいい紅筆の握り方なんか、教えていないよ……。
自分には目もくれず、ただ化け物を睨み上げていたクシフ。
彼は紅筆を口にくわえ、右手には刷毛をもっている。空いた左手には、黒が塗りたくられていた。おそらく眉墨。
ああ、そうか。よく考えたね。
彼が考えているのであろう色の組み合わせを想像し、感心した。
自分はここで死んでしまうだろうに。
そしてぼんやりと考える。
きっと人間が死ぬ時はこんなものなのだ。
死から目を逸らすから、一人では死にきれない。
だから死化粧師がいる。
弾けるように、クシフは跳躍した。
化け物は気づかない。
それはそうだろう、クシフがここにいるはずがないのだ。しかも五年分も年をとったような姿でなど、ありえない。
レイデッドだけが夢を見ている。それだけだ。
ふわり、宙に浮く心地を味わう。
けれども、レイデッドは化け物に握られていたままだ。
下から重いものでも落ちたような音がする。もう一人のレイデッドが地面に伏していた。
雑巾の如くぼろぼろのその姿、命があるとは到底思えなかった。
死者が自分の体を見るというのは、こんなふうに、なのかな。
ふとそんな思いが過る。
それは自分に起こった事実を理解するのと等しかった。
化け物が頭を動かし――おそらくは口を開けたのだ――自分の全てに闇がかぶさる。
跳躍したクシフがどこに着地したのか、それはレイデッドにはもう分からない。
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思い出で楽しむのを止め、彼は立ち上がる。
世界の隔てに穴を開けるという大作業の疲労はまだ癒えていなかったが、時間と心に余裕がなくなった。
穴の再生速度が速まった。
彼の飢えも頂点に達しようとしていた。この飢えはとうに彼の体からはみ出している。
五年前にああやって初めて人の魂を食べ、そしてそれ以外は食えなくなっている彼。
あの男の魂が上質だったのか、もともと人間の魂とはそういうものなのか、五年間何も口にする必要がなかった。
だがどうしても、また人間と遊びたかった。
彼がこちらに戻ってから、どうしてか大地の封じが強化されていた。
だから待って、待って、今動いている。
封じの力は時間の経過に負け弱まっていたはずだった。それなのに。
「ナんダってんだ? なンで再生ノちカラが強クなっテル?」
苛立ちを感じながら、穴に詰めていた者たちを取り外していく。
穴から少しずつ光が漏れ始めていた。
あちらの世界に、昼というものがきたのだろう。
そして通しの良くなった穴から、彼は4つの匂いを発見した。
全てが人間のものだ。
それぞれが一つ一つ特徴を持っている。




