第10話 墓参りの日 3
紅筆の毛並みは文句ない。
紅皿に薄く塗られ乾いた口紅は、甘みの強いリンゴと春盛りの桜の中間の色。
眉墨は黒を柔らかく練り硬めたもの。
頬紅は肌に淡く溶けるかの如く淡い。
――朝食を終えてしばらくしてから、クシフは商売道具を一つ一つ順番に化粧箱の中へと詰めていった。
今日も仕事が一件入っている。
大工の親父の、娘さんの化粧だ。見合い相手と顔合わせをするための化粧の依頼だった。
化粧箱の中には、彼女の町一番美しい顔を思い浮かべながら選び抜いた逸品が詰まっている。
「ねぇクシフ用意できたぁ?」
扉が開いてヴァネットサミスが顔をのぞかせる。仕事の前に彼女との約束があった。
年に一度の、墓参り。
これにビッターラビィが加わっていないのは、彼が毎年この日になるとどこかに消えるからだった。
五年前から、彼は森に近寄らなくなった。
気持ちは理解できる。クシフもヴァネットサミスも一度もそれを咎めたことはない。
「ああ、今行く」
ヴァネットサミスが買ってきた花束をクシフが持ち、二人は家を出た。
一人手ぶらなお姫様は太陽の下を進んでいく。その途中で話されるのはエレのことばかりだった。
別れた時は安堵したが、彼はまだヤジョヌズにいるだろう。また会う可能性は大いにある。
そう考えるとクシフの心は落ち着かなかった。
今、この二人きりの間に自分の思いを告げてしまおうかとも考えた。
だかそれはなんだかビッターラビィを蚊帳の外にするようで、さらには言ってしまっても今の関係と変わらないような気がして、止める。
普通なら、問題なのは彼女の愛の矢印が二人に分かれていることだろう。
けれどもクシフはそれを独占しようとは思っていないし、きっとビッターラビィもそうだろう。
相手がビッターラビィだから良いのであって、エレでは絶対に嫌だが。
そんなことで頭をいっぱいにしていると、いつの間にか森に入っていた。
「あ、この木ぃ懐かしいねぇ」
ヴァネットサミスがはしゃぐ様子で指さした先には、大きく歪んで成長した木があった。
幹が曲がった箇所に腰かけ、枝から下がったツタで遊んだ、子供の頃の思い出の木だ。
そしてクシフの、特別な思い出でもある。
クシフが初めて人の魂を見た場所。
その魂というのは、ビッターラビィとヴァネットサミスのものだった。
――次第に自分の目線が低くなる。
ヴァネットサミスが少年たちに石を投げつけ、それから何日かたった頃の話だ。
「クシフ〜登っておいでよぉ」
見上げると、幹の曲がった箇所に子供のヴァネットサミスがいた。スカートの中身が見えるのも気にせず、クシフに向かって手を降っている。
その少し高いところではビッターラビィが太い枝に座っていた。
遠くを眺めている。そして歓声を上げた。
「見ろ! 雲の間から太陽が出てきた! すごいぞクシフ、下から見る太陽とは全然違う。大きくて色が濃い」
言われて目をやると、クシフの目にも太陽が光を当てた。
けれどもそれは葉の隙間からこぼれる光。
ビッターラビィのように喜ぶ程のものではなかった。
だから彼と同じ感動を味わいたくて、クシフは木のこぶに手をかける。
「偉大なる子狸ポルラガマヌヌはかく語りき。大きな存在を見よ、それは成長への道標。しかし見ているだけでは何もなかったのと同じだ。
……相手が太陽の場合は、どうすればいいんだろうな」
上を見たクシフは「どうすればいいんだろう」と言った彼の体が勝手に答えを出したのを見た。
ビッターラビィが空へと両手を差し出す。
そして体はつられて前へと動き、次の瞬間にはビッターラビィの小さく短い声と、ヴァネットサミスの悲鳴が重なった。
木から見放されたビッターラビィ。
ヴァネットサミスが彼を守ろうと動く。
結果、彼女も木から見放された。
落ちてくる二人が、ひどくゆっくり見えた。
大きく見開いたクシフの瞳に近づくにつれ、二人の姿は大きくなってくる。
(大きな存在を見よ、それは成長への道標。しかし見ているだけでは何もなかったと同じだ)
この場合はどうしたらいいんだ!
柄にもなく大声で叫びたくなった。
そしてクシフは、ビッターラビィのように両手を彼らに捧げた。
その時、太陽が強く輝く。
落ちる二人の体から、色だろうか? 何かが尾を引くように伸びていた。
ビッターラビィからは、長い年月を経ても自己の存在を叫び続ける、名画に描かれた濃い大地の色が。
ヴァネットサミスからは、火と闇とがぶつかり合う夜の灯火の色が。
クシフはその色たちに、手だけではなく心まで捧げた。
ビッターラビィが木の上で太陽を見た時の気持ちはこれと同じなのかもしれない。
そして美しい色が眼前に迫り、クシフの目を覆う。
瞬き一つすると、高くなった視界に誰も登っていない木が見えた。
「あれは、痛かった」
腕をさすりながら、クシフは笑った。
そういえば、いつも痛い思いをするのは自分の役割かもしれない。
「私たちが落ちちゃったからぁ、クシフ腕折っちゃったんだよねぇ。ごめんねぇ」
ヴァネットサミスは本当にに申し訳なさそうな顔をしていた。
もう過ぎたことだからと言うと多少は表情を緩めたが、それでもいつものような笑顔ではなかった。
ヴァネットサミスがそこまで悪く思う必要はない、もともと悪いのはビッターラビィなのだから。
それどころか彼を助けようとした彼女は偉大だ。それこそどこかの狸のように。
そういえばビッターラビィは今どこにいるのだろう。
狸からの連鎖で思考がそちらへと向いた。




