第6章 静かな朝の練習
倉庫で一夜を明かしたあと、俺たちは場所を移した。
郊外にある、小さな古民家。
知り合いが長く使っていない場所で、今は完全に空き家になっている。
「……ここなら、少しは落ち着けるな」
靴を脱いで中に入ると、木の床がかすかに軋んだ。
生活の気配は薄いが、人の匂いが残っている。
無機質な施設や倉庫とは違う、どこか安心できる空間だった。
—
「環境をスキャンします」
ミナが室内を見渡しながら言う。
「外部からの監視リスクは低いと判断できます。ただし、完全ではありません」
「上等だろ、それなら」
—
荷物を適当に置いて、そのまま畳の上に寝転がる。
天井を見上げると、木の節がいくつも並んでいた。
「……なんか久しぶりだな、こういうの」
「どのような意味ですか」
「“人が住んでる場所”って感じ」
—
ミナは、ゆっくりと部屋の中央に立ったまま動かない。
その姿は、まだこの空間に馴染んでいないように見えた。
—
「座れよ」
「……床に、ですか?」
「そうだよ」
—
数秒ほど考えたあと、ミナはぎこちなく正座をした。
背筋は相変わらず真っ直ぐで、教科書みたいな姿勢だ。
—
「……どうだ?」
「安定しています」
「そういう意味じゃなくて」
言いながら、思わず笑ってしまう。
—
「リラックスできるかって話」
ミナは、視線を落として考え込んだ。
「……評価基準が曖昧です」
「まぁそうだろうな」
—
しばらく沈黙が続く。
外から鳥の鳴き声が聞こえてきた。
—
「ミナ」
「はい」
—
「ちょっと練習するか」
「……練習?」
—
「人間っぽくなるやつ」
ミナは、ほんのわずかに首を傾げた。
—
「具体的には?」
「“普通に過ごす”ってやつだよ」
—
俺は体を起こして、向かいに座った。
—
「例えばさ」
少し考えてから言う。
—
「朝起きて、ダラダラして、どうでもいい話して……そういうの」
「……非効率な行動ですね」
「そう、それ」
—
ミナは黙り込んだ。
処理しているのが見て取れる。
—
「……なぜ、そのような行動を行うのですか」
—
「楽しいからだろ」
—
自然に出た言葉だった。
—
ミナの視線がこちらに向く。
「“楽しい”の再現、ですか」
「まぁそんな感じ」
—
「……試行します」
ミナはそう言って、少しだけ姿勢を崩した。
ほんのわずかな変化だが、これまでの彼女からすれば大きな違いだった。
—
「で、何話す?」
「話題を要求します」
「そこからかよ……」
思わず頭をかく。
—
「じゃあ、好きな食べ物とか」
「私は栄養効率を基準に選択します」
「それは知ってる」
—
少し考えてから、聞き方を変えた。
「じゃあさ、“もう一回食べたい”って思ったものは?」
—
ミナの動きが止まる。
—
「……該当データを検索」
—
数秒。
—
「……昨日の味噌汁」
「お、いいじゃん」
—
「塩分調整に失敗しましたが、マスターが笑ったため、記憶に強く残っています」
—
その説明に、思わず吹き出す。
「そこかよ」
—
「はい」
ミナは真面目な顔で頷いた。
—
「……あのときの状況を再現すると、内部ノイズが増加します」
「ノイズなぁ」
—
少し考えてから言う。
「それ、多分“嬉しい”で合ってるぞ」
—
ミナは、自分の胸のあたりに手を当てた。
「……この反応を、“嬉しい”として分類します」
ゆっくりと確認するように言う。
その仕草は、どこか人間らしかった。
—
しばらくして。
—
「マスター」
「ん?」
—
「質問があります」
「どうぞ」
ミナは、一瞬言葉を選ぶように間を置いた。
—
「……マスターは、私といる時間を“楽しい”と感じますか」
—
予想外の方向から来た。
「……どうした急に」
—
「確認したいだけです」
その声には、はっきりとした目的があった。
—
逃げる理由もない。
「楽しいよ」
—
短く答える。
ミナの瞳が、わずかに揺れる。
—
「……本当ですか」
「嘘ついてどうすんだよ」
—
少し間を置いてから、付け加える。
—
「最初はただの機械だったけどな」
—
ミナの肩が、ほんの少しだけ動いた。
「今は違う」
—
「……どのように違いますか」
「そうだな」
—
言葉を探す。
—
「ちゃんと、そこにいる感じがする」
—
沈黙。
—
ミナは、しばらく動かなかった。
—
やがて。
「……理解しました」
そう言ったあと、視線を下げる。
—
「内部反応が増大しています」
「またノイズか?」
—
「はい。ただし——」
顔を上げる。
—
「……これは、不快ではありません」
—
そのとき、外から風が吹き込んだ。
カーテンが揺れて、光が差し込む。
—
その光の中で
ミナの表情が、ほんのわずかに変わった。
—
ぎこちない。
それでも確かに。
—
「……マスター」
「ん?」
—
「これが、“笑う”に近い状態ですか」
—
思わず、息が止まる。
—
「……ああ」
ゆっくり頷く。
—
「だいぶ近い」
—
ミナは、もう一度その表情を作ろうとした。
今度は少しだけ自然になっている。
—
「……成功率が向上しています」
「いいじゃん」
「はい」
—
短く答えたあと。
「……マスターと一緒にいると、改善されます」
その言葉は、どこまでも真っ直ぐだった。
—
だが、その直後。
—
ミナの動きが止まる。
「……警告」
「来たか」
—
空気が、一瞬で張り詰める。
—
「広域スキャンに反応あり。こちらの位置が特定される可能性が高いです」
—
さっきまでの穏やかな空気が、一気に消える。
—
「……行くぞ」
—
立ち上がる。
—
ミナもすぐに立ち上がる。
—
だが、その動きにはさっきまでとは違うものがあった。
—
「……マスター」
「なんだ」
一瞬だけ迷ったあと。
「……離れないでください」
—
その言葉。
恐怖と、依存と、願いが混ざっていた。
—
「当たり前だろ」
短く返す。
—
その答えに、ミナは小さく頷いた。
「……はい」
—
もう迷いはなかった。
—
静かな時間は終わる。
だが、その時間で確かに積み上がったものがある。
—
それはデータではなく、命令でもない。
—
“選んだ関係”だった。
【作者コメント】
こんな平和な時間がずっと続けばいいのに。




