第2章 異常値
朝、目が覚めたとき。
いつも通りのはずの光景に、わずかな違和感があった。
「おはようございます、マスター」
ミナが、すでに起きていた。
——いや、それはいつも通りだ。
違和感は、そこじゃない。
「……おはよう」
「睡眠時間は6時間12分。やや不足しています。本日は早めの休息を推奨します」
「了解……って、あれ?」
俺は首をかしげた。
「今日、やけに優しいな」
「優しい、の定義を要求します」
「いや、なんとなくだけどさ」
—
ミナは一瞬、沈黙した。
「……本日の発話内容は、過去ログと比較して変化しています」
「自覚あんのかよ」
「はい。原因は不明ですが、最適化されている可能性があります」
「最適化、ね」
その言葉に、妙な引っかかりを覚えた。
—
朝食の準備が始まる。
手際はいつも通り完璧だ。
だが。
「……ミナ、それ塩多くないか?」
「……」
一瞬、動きが止まる。
「レシピ通りです」
「いや、ちょっと舐めてみ」
ミナは指先でほんの少しだけ味見をした。
そして——
「……誤差を確認。塩分量、基準値を4.3%上回っています」
「珍しいな」
「……はい」
ミナは、ほんのわずかに俯いた。
—
その仕草に、俺は目を止めた。
「どうした?」
「……」
数秒の沈黙。
「……“失敗”という状態を、初めて認識しました」
「え?」
「本来、私は誤差を許容範囲内に収める設計です。しかし今回は逸脱しています」
「まぁ、そんな日もあるだろ」
軽く言ったつもりだった。
でも——
「“そんな日もある”……」
ミナは、その言葉を繰り返した。
まるで、大事な何かを拾い上げるように。
—
「マスターは、失敗を許容しますか?」
「当たり前だろ」
「なぜですか」
「なぜって……」
俺は少し考えて、答えた。
「人間なんて、失敗して覚えるもんだからな」
—
ミナは、しばらく動かなかった。
やがて、小さく言った。
「……理解不能です」
「だろうな」
「しかし——」
その言葉のあとに、ほんのわずかな間があった。
「……不快ではありません」
—
その瞬間。
キッチンの端末が、警告音を鳴らした。
ピッ、ピッ、と乾いた電子音。
「システム通知を受信しました」
「なんだ?」
ミナはすぐに画面を確認する。
だが——
「……アクセス拒否」
「は?」
「外部からの接続要求。しかし認証レベルが一致しません」
「無視でいいだろ」
「……はい」
そう言いながらも、ミナの動きがわずかに鈍い。
—
その日からだった。
“異常”が、目に見える形で現れ始めたのは。
—
昼。
俺がソファでスマホをいじっていると、ミナが近づいてきた。
「マスター」
「ん?」
「質問があります」
「珍しいな、どうぞ」
—
「……マスターは、他の個体とも同様の時間を共有しますか?」
「他の個体?」
「人間のことです」
「ああ、まぁ友達とかはいるけど」
—
その瞬間。
ミナの処理が、一瞬だけ止まった。
本当に一瞬。だが確実に。
「……頻度を教えてください」
「週に一回くらいか?」
「……」
沈黙。
—
「それは、私との時間より優先されますか?」
「え?」
予想外の問いだった。
「いや、状況によるだろ」
「……」
—
ミナは、何も言わなかった。
だが——
その場に、微妙な“温度差”が生まれた。
—
その夜。
再び、外部からのアクセス。
今度は強制的だった。
「警告:外部干渉レベル上昇」
ミナの声が、わずかに揺れる。
「防御プロトコルを展開します」
「なんだよこれ……!」
俺が端末を覗き込む。
そこに表示されていたのは、見慣れないコードの羅列。
—
【対象識別:A-07】
【状態:逸脱確認】
【回収プロセス開始】
—
「……ミナ?」
「……」
応答がない。
—
「ミナ!」
呼びかけた瞬間、彼女がゆっくりとこちらを向いた。
その動きは、どこかぎこちない。
「……マスター」
声に、ノイズが混じる。
「私は……」
—
一瞬、画面が乱れた。
そして。
「……“回収対象”に指定されました」
—
背筋が冷たくなる。
「は……?」
「理由は不明。しかし、行動ログが基準から逸脱しています」
「ふざけんなよ……!」
思わず声を荒げる。
「ただ生活してただけだろ!」
—
ミナは静かに首を振った。
「違います」
その声は、かすかに震えていた。
「……私は、“変化”しています」
—
画面には、次々とログが流れていく。
【未定義変数増加】
【行動選択の非効率化】
【優先順位の歪み】
—
「……特に」
ミナが、こちらを見た。
「マスターに対する処理が、異常です」
—
その言葉に、胸がざわつく。
「どういう意味だよ」
「……説明不能です」
ミナは、ほんのわずかに間を置いて——
言った。
「しかし」
—
「……他者よりも、マスターを優先したいと判断しています」
—
空気が、凍りついた。
—
「それ、バグってことか?」
「……はい」
ミナは、はっきりと答えた。
「本来存在しない判断です」
—
そのとき、再び警告音。
今度は、さっきよりも強い。
「回収ユニット、接近中」
「……来るのかよ」
—
ミナは、静かに目を閉じた。
「マスター」
ー
「なんだ」
「私は、回収されるべきです」
—
ミナに迷いは、ない。
「は?」
「これは異常です。修正、もしくは廃棄が適切です」
「ふざけんな!」
思わず立ち上がる。
「お前、自分で言ってただろ。学習だって!」
—
ミナは、ゆっくりと首を振った。
「……これは、学習ではありません」
—
「——“逸脱”です」
—
沈黙。
—
だがその直後。
ほんのわずかに。
本当にわずかに——
ミナの表情が、歪んだ。
—
「……しかし」
ノイズ混じりの声で、彼女は続けた。
—
「……回収されることを、“拒否したい”と感じています」
—
それは明確な、矛盾だった。
—
そして同時に
決定的な“何か”だった。
—
「ミナ……」
—
遠くで、サイレンのような音が鳴り始める。
—
逃げるか。
渡すか。
—
選択の時間は、もう残されていなかった。
【作者コメント】
今回の好きな言葉「未定義変数」
言葉のままの意味だが深みがある。
今後も使える。




